2のへ組の校外授業は極端に多い。 教室で椅子に座って淡々と一方的な授業を聞くだけが教育ではないのだと、どこかのコメンテーターが言っていたが、彼らは果たしてこの一日を立派な教育だと認めてくれるだろうか。 一通り暴走した後の校舎へ向かう帰り道は、斜陽に照らされ空寂をかもし出している。長く伸びる影を追いながら、歩きつかれた一行はだらだらとまとまりなく歩道を歩いていた。 「まあまあ、先生。そんなに落ち込まないでくださいよ」 毎度、生徒たちを校外へ連れ出す張本人でありながら、肩を縮めてしょんぼりと最後尾を歩く望の背中を、小さな手がポンと叩いた。ずれた眼鏡を押し上げながら顔を上げるといつのまにか隣に並んでいた可符香が微笑みを浮かべている。その向こうではマ太郎が手をつないで歌を歌っていた。 可符香は幼さの残る高い声でもう一度「先生」と呼ぶと、夕暮れの空を見上げながら言った。 「大丈夫ですよ、明日はきっと」 それは本日の絶望的結論に対するフォローなのだろうか。同級の神経質少女が「無責任」と評価するのもわからなくはない。 彼女の得意技である行き過ぎたポジティブ発言は、陰にも陽にも流されやすい望を時に励まし、時に陥れた。 何事にも動じず、常に揺らぐことのない確固たる自己を有する彼女。自分とは完全に相反する彼女に、望は確かに敬遠を抱いている。 彼女はどこか遠い世界の人間なのだ。時折飛び出す電波な発言はともかく、それ以外の物事に対する開放的なスタイルはまるで聖人だ。生まれたときから清廉であるかのように、彼女はほとんど欲というものを見せない。 それがあまりに人間らしさとかけ離れているから、望に警戒心を抱かせるのだろう。 望はふっと背筋を伸ばすと、探るように可符香の瞳を見つめた。 唐突に思いついたのだ。 そもそも、彼女がこうも肯定的に考えるのはなぜだろうか。そうさせる理由があるのではないか。 珍しく望の真っ直ぐな視線を受けたせいか、わずかに目を丸くした少女に、望はついに尋ねてみた。 「あなたのその突飛な……いえ、個性的な発想はいったいどこから来るんですか?」 「突飛?」 「たとえば人の心の隙をつくような発言です」 「別にそんなつもりはありませんよ?」 平然ととぼけた彼女はそのままはぐらかしてしまうかと思われたが、意外にも人差し指を下唇に押し当て何かを探すように中空を見上げた。探しているのは質問の答えか、逃げ口上か。 仕草のために空けた両手からマ太郎が前方へ走っていってしまうと、なんとなく居心地の悪い沈黙が残された二人を取り巻いた。 前方の喧騒がやけに遠く感じる。 わけもなく望を急かす不安、恐怖。何に怯えているのか突き詰めてみたら、自分から求めたはずの彼女の答えだった。 実を言うと、はぐらかされることを望んでいるのだ。真面目な答えを返されて、彼女を知ってしまうことが怖い。 彼女を暴くことは、どこか禁忌に手を伸ばすのに似ている。もしかしたら罠であり救いである、一種の幻想を抱いたままでいたいのかもしれない。 「そうですねー」 長い黙考の後呟かれた声に、望は少々過剰なほど緊張した。そんな彼にはかまわず、可符香は何のつもりか歩道脇の花壇の縁にひょいと飛び乗ると、両腕を伸ばしてバランスをとる。望の膝の高さほどのそれは、小さな背丈の底を上げた。 いつも見下ろしていたはずの可符香の横顔が、意外なほど近い。まつげまで鮮明に見える距離に望は少し身を引いた。 「風浦さん、危ないですよ」 「大丈夫です。へえ、先生ってこんな感じで世界を見てるんですね」 彼女は手のひらで額にひさしを作ると、遠くを眺めるように目を細めた。その意図がまるで見当もつかず、望は首を傾げてさらに問いを重ねる。 「それが、どうかしたんですか?」 「質問の答えですよ。先生が知りたがったんでしょう? 発想の原点を」 「そうですが……」 「私は何も特別なことはしていません。ただ人と話す時に、同じ目線になれるように意識しているだけです」 彼女の細い指が、自らの大きな丸い瞳を示す。時折不穏な輝きを宿す紅茶色の虹彩は、夕日を浴びて鋭さを増していた。 「目線、ですか?」 「ええ、だってほら、そこを歩いていたら私と先生じゃ見える世界が違うでしょう? でも同じ高さになってみれば、先生と同じものが見える。それぞれ別の人間なのでどんな風に見えるかまで同調することはできませんが、近い分共感できる気がしませんか?」 「………………………」 頼りない細いふちの上で足元も見ずに、ひたすら前だけを見据える横顔。 バランスを崩したときのためにいつでも支えられる心構えだけはしながら、望はその表情にさらなる敬遠を抱いた。 彼女の話は具体的なようでいて、非常に抽象的だ。そういう思想は望も好むが、どうしてか彼女の口から言われると現実味に欠ける。確かな存在感がない。 決して人を拒むような内容ではなかったのに、望には彼女が孤独であるような印象を受けた。 どんなに他人に近づこうとも決して見せない心の奥。「共感」と彼女は言ったけれど、果たして本当に彼女は愚かしいほどの人間味に共感などできるのだろうか。 彼女の言動はどこまでも柔軟でありながら、限りなく他人事。 「せんせーい!」 先頭集団で何かしらあったらしく、千里が大きく手を振って望を呼んだ。仮にも引率である以上、一応向かわなければならない。 「先生呼ばれてますよ」 「わかってますよ。さ、風浦さんもう降りなさい」 男として大人として教師として、彼女に差し伸べた手は軽やかに無視された。彼女はそこへ乗ったときと同じく軽やかに飛び降りると、しっかりと地面を踏みしめ着地する。ふらつきもしない。 そのまま友人たちの名を呼んで駆けていく後ろ姿を呆然と見送りながら、望は眉を寄せて顔をしかめた。 支えを必要としない彼女の目線には、いったい何が映っているのだろう。 |
彼女の世界 |