用務員のおじいさんから教室の窓が開いたままだと指摘され、職員室で帰り支度を始めていた望はしぶしぶ立ち上がった。
気付いたのなら閉めてくれればいいのに、と融通の利かない老人を内心でなじりつつ、担任する教室へ向かう。下校時間をすぎた廊下にはまだ生徒たちがだらだらと居残り、夕日を浴びて談笑していた。
下校時刻と言ってもこの季節はまだまだ明るい。日光にだまされて教室に残っている生徒の一人や二人がいたところで何もおかしくはない。だから教室の戸を引き開けたとき、見慣れたセーラー服の姿を見つけても当然驚くことはなかった。

「あなたでしたか」
「あら、先生」
夕暮れの静かな風がカーテンを揺らしている。その傍らで机に寄りかかった風浦可符香が逆光に照らされ色濃く浮き上がって見えた。判然としない表情はおそらく見慣れた笑みを描いているのだろう。

「そういえば日塔さんと藤吉さんがあなたを探していましたよ。もう1時間ほど前の話ですが。放課後はみなさんと約束していたんでしょう?」 すぐに退出するのだからと、あえて室内の電気はつけずに、望は窓辺に近寄った。常より口数の少ない少女に気まずさを覚え、望の口は勝手に独りよがりな話題を生み出す。一歩ごとに明らかになる彼女の表情には、何か見慣れないものが潜んでいる気がした。

「ここで……何をしていたんですか?」
どうにも真正面から問うことがはばかられて、望は少女の隣をすり抜けて一つだけ開け放たれていた窓を閉める。ついでにカーテンもくくってしまうと、教室内が淡い橙色に染まった。感傷的な景色の中で短い黒髪がさらりと揺れる。
彼女はやや反動をつけて机から離れると、両手で広げていたものをパタンと閉じた。
「本を、読んでいたんです」
「本?」

彼女の胸に抱えられているのは白い装丁のハードカバー。背表紙の下の方に図書室の蔵書であることを示す赤いシールが張られていた。彼女がどんな本を読むのか、ふと興味が湧いて片手を差し出すと、彼女は素直にそれを明け渡した。
「金子みすず……ですか」
「ええ」
3冊ある全集のうちの1冊らしい。もとは真っ白だったはずの表紙は手垢や擦り傷でだいぶ痛んでいる。それを癒すように指先で撫でながら、望はなんとなく不安な心地になった。
詩集の作者の持つふわふわととらえどころのない雰囲気が、目の前に立つ受け持ちの生徒の印象に重なる気がしたのだ。
「……金子みすず、先生は好きですか?」
「…………ええ、まあ。嫌いではありません」
「そうですか」

彼女は詩集を抱えたままの望に背を向けると、斜陽から逃げるように教室の奥へと机の隙間をぬって歩く。暗い闇に吸い込まれていくその後ろ姿を見つめながら、望は妙な焦燥感を抱いた。
まるでそのまま消えてしまいそうな。見失ったら二度と会えないような。
そのまま自席まで辿りついた彼女は机に引っ掛けた鞄を取り上げて首を傾けた。
「それじゃ先生。神様へのお祈りがあるのでそろそろ帰ります」
唐突に響いた声は確かな現実感をもって望の耳を叩いた。相変わらずの突飛な発言に、苦笑いより先に安堵が広がる。
得体の知れない不安は杞憂にすぎなかった。闇の向こうでも彼女はしっかり存在していた。
何をおかしなことを考えたのだろう。きっと金子みすずの不可思議な魔力に惑わされたのだ。
手の中の詩集をぎゅっと強く握った望は、見えない笑顔を想像して頬を緩めた。
「ええ、気をつけて帰りなさい」
「はい、それでは」
ひらり。スカートの裾が翻る。軽やかにきびすを返した彼女は、開け放したままの扉から廊下へ駆け出して行った。足音はやがて緩やかに遠ざかっていった。

「…………あ」
一人残された教室で、望は改めて詩集を返し損ねたことに気付く。まあ図書室の蔵書だし、机の上にでも返しておけばいいかと持ち直したところで柔らかな感触が手の甲をくすぐった。
ほどけかけた頼りないしおりが本の真ん中当たりを噛んでいる。彼女が印したものなのだろうか。紐にそって開いた望はかすかに瞠目し、深いため息をついた。

わずか10行足らずの短い詩。
ふわふわとしてとらえどころがない柔らかな文章に、あの少女の本質をみた気がした……。


   さびしいとき

  私がさびしいときに、
  よその人は知らないの

  私がさびしいときに
  お友だちは笑うの

  私がさびしいときに
  お母さんはやさしいの

  私がさびしいときに
  佛(ほとけ)さまはさびしいの



さびしいとき




授業でこの詩を聞いたとき、真っ先に可符香を思い浮かべました。
彼女の心を分かち合えるのが心の中の神様だけだとしたら……。