「気は済みました?」 茶をすする和やかな音の合間に挟まれた少女の声は能天気に明るい。 少なくともたった今首から縄を外した人間にかける言葉ではない。 そりゃもちろん、本気で死ぬつもりも誤って窒息するつもりもない、未遂前提の行動ではあるが、もう少しこう心配とか慰めや励ましの言葉とかかけてくれてもいいんじゃなかろうか。 仮にも彼らは教師と生徒という関係で、それ以上の感情も交わし合った仲であるのだし。 「納得いかない」 畳に両手をついてうなだれた望はうらめしげな瞳で少女を見上げながら呟いた。 いくら咳き込んでみせようとも彼女はちっとも哀れんでくれない。首吊りを前にしてこうまで平然としていられるとかなり空しいものがあるのだが、こちらの期待なんてまるごとお見通しなのだろう。彼女は湯飲みを置くと、望の視線など知らん振りでせんべいに手を伸ばす。 「何が不満だって言うんですか、先生。好きなだけ好きなことしてるじゃないですか」 「自殺が趣味みたいに言わないでください」 「あら、違ったんですか」 「風浦さん!」 抗議のためにちゃぶ台に手をつくと、「食べます?」と半分に割ったせんべいを突き出された。反射的に受け取ってしまって渋い顔をした望は、決めゼリフはあきらめてあぐらで腰を落ち着ける。鬱と書かれた望専用湯飲みには暖かい緑茶が注ぎ足された。 「人生不満だらけですよ。満足して生きている人間なんてどれだけいることか!」 その証に望の願望はいつだって空回り。 死にたいのに死ねない。言いたいことは言えない。欲しい言葉はもらえない。 幸福の絶対量が決められているとしたら、その配分はあまりにも不平等だ。金と同じく、幸福は有り余っているところにまた流れていく。 「謙虚に控えめに日陰を生きてきたはずなんですけどねえ」 報われないのはなにゆえか。 無駄だと知っていながら期待を込めて嘆くと、せんべいを茶で流し込んだ可符香が上目で見つめながら言った。 「それはたぶん罰なんですよ」 「……罰、ですか?」 毎度毎度彼女の口から飛び出す単語は予測ができない。 案の定、推測の範疇を超えたので望は眉を上げてさらなる補足を求めた。一直線の視線から逃げたのは彼女のほう。遠い横顔が見つめる先は畳の上に投げ出された縄だった。 「不満なのは欲張るからです。本当に謙虚に生きているなら自然と欲は満たされます」 彼女の理論は時に説教じみている。それは加賀愛の悟りにも似てまったく否なるもの。 望は頼りない横顔にわずかな苛立ちを感じ、表情を険しくした。 「それじゃああなたは何も求めていないというのですか?」 与えられるものだけで満足できるのなら、彼女の人生はなんとも受動的だ。 むしろ諦観に近いだろう。 たいがい望にとってもあきらめという概念は身近なものだが、そんな無気力な説教を素直に受け入れられるはずがない。それが彼女の口から出たものであるならなおさら。 とてもそうは思えないし、彼女の特別な立場としてそう思いたくないのだ。 「可符香さん」 こちらを見ない少女がもどかしく、望は催促するように名を呼んだ。はっと顔を上げた彼女が真贋見分けのつきにくい笑みを浮かべる。 「欲がないなんてとんでもない。最低限の望みくらい期待したいです」 「…………どんな?」 最低限、という言い方が引っかかったが望は続きを促がした。 「聞きたいですか? きっと先生泣きたくなっちゃいますよ」 「う…………それでも聞きます」 可符香の丸い瞳がいたずらに輝く。 ぞくりと背中を走ったのはきっと悪寒ではなく期待なのだと自分に言い聞かせて。 彼女は内緒話をする時のように望の耳元にそっと囁いた。 「先生の隣にずっといたいってことです」 「っ!!」 鼓膜に吹き込まれた甘い声。うなじがあわ立つ感じがして硬直した望はぎこちなく彼女を見下ろした。顔が熱いのはたぶんみっともないほど紅潮してるから。 無邪気な笑顔の可符香をうらめしく睨みながら、望はガックリと肩の力を抜いた。 なんと卑怯な手口だろう。まったくずるい。反則だ。 だってこれでは彼女の不愉快な理論を認めなくてはならないじゃないか。 「……なるほど。確かに私は罰が当たっても仕方のない人間ですね」 半ば観念したように呟くと、望は彼女の細い腕を引き寄せた。珍しく驚いたらしい彼女の大きな瞳が一瞬ぶれて、胸の中に倒れこんでくる。 手加減無しに力を込めて、望は仕返しのつもりで彼女の小さな耳に低い声を忍ばせた。 「なぜなら私はあなたの隣だけじゃ満足できませんから」 満たされないことが罰だとしても、求めずにはいられない。 あいにく望はごく一般的な欲深い人間の一人でしかなく、それ以外にもそれ以上にもなれなかった。 |
凡人Aの罪と罰 |
「対象a」の歌詞から。
書ききれなかったけど可符香は罪びとです。
あれは神曲ですね、本当に。ちょっと中毒になる。
そしていつものことながら、まといちゃんや霧ちゃんはスルー。ついでに交くんも。