のんきなあくびが頭の上から聞こえて、可符香は振り返った。目じりにあくびの名残を浮かべて立っていたのは意外な人物。

「久藤くん」

常に片手に何かしらの本を携えている彼に、退屈は無縁だ。時に熱中しすぎて睡眠を削ってしまうこともあるようだが、今のように無気力なあくびは過去に聞いたことがない。

「朝買ってきた本は」
「もう読みきっちゃったよ」
「そっか」

並んで壁に寄りかかった二人は、固く閉ざされた扉を前に滑稽な説得交渉を繰り広げているクラスメイトを他人事のように眺めて、同時に肩をすくめた。

古典から錬金術まで幅広い蔵書を誇る我が校の図書室は、昨朝から閉鎖されている。理由は単純、うちから鍵をかけられているからだ。翌日の昼をすぎた現在も、扉が開放される気配はない。
鍵をかけた犯人……つまり図書室に引きこもり、もとい立てこもっている我が担任は、再三の呼びかけにも沈黙を保っていた。

「千里ちゃん、もうどれくらい?」
「ちょうど30時間すぎたところよ」

奈美の問いかけに秒針一秒たりとも狂いのない腕時計を確認した千里が顔をしかめると、それに同意するように床に座り込んだあびるが皮肉った。

「水も飲まずによくもつわね」



そもそもの発端は昨日のホームルームでの出来事だった。
糸色はたいてい絶望的な顔をして教室に現れる。それが標準なのか、毎朝絶望的なことがあるのか、もうすでにわからないが、彼は義務的に出席をとると連絡事項もそこそこにきまって「本日の絶望的お話」を始める。
昨日の話題は糸色がすれ違った中学生が、笑いながら話していた「一言」についてだった。

「あいつの授業なんてボイコットすればいいじゃん」

ボイコット。意見の主張のために相手を排斥したり、活動や運動に参加しないこと。
学生の間では本来の意味よりむしろ教師へのいやがらせやサボるという意味合いで使われることの多いその単語が、どうやら教師糸色の弱い心を突き刺したらしい。

「あー、あるある」
「まあ、ありがちだよね」

と頷いてしまうのは、数年前までごく一般的な中学生だったゆえか。一部の生徒の反応にさらに顔を青くした糸色は、ついにお決まりのセリフ「絶望した!」を高らかに叫んだ後、生徒たちに向かって妙な宣言を下したのだ。

「だったら、私も気に入らないクラスの授業をボイコットします!!」

日常茶飯事である。人間というものは意外に適応力が高いもので、何度目になるか数えることすらあきらめた習慣に、焦る者も悲しむ者もいなければ驚いてあげることすらできなかった。

唯一返ってきた反応といえば、うんざりとでも言いたげな「また始まったよ」の囁き。
千里が半ば義務感から「先生が授業をしなくてどうするんですか!」というこれまた聞き飽きたセリフを叫ぼうとも、カワイソぶりっこの糸色を満足させるには届かない。

哀れ、とどめの一言はポジティブに見せかけたえげつない可符香の笑顔から容赦なく発せられた。

「でも代わりの先生ならたくさんいます!」
「代任教師!!」

いつも的確に糸色の心を突き刺す発想は今日もぶれなくストライクを射抜き、涙の教師を教室から退場させたのである。



『にしたってなんで図書室かよ』
「あら、いいじゃない。退屈しなくて」

芽留が突き出した携帯に、晴美が少年誌に視線を落としながら答える。確かに篭城者は退屈しないだろうが、代わりに退屈を押し付けられた人間がいる。久藤が手持ち無沙汰な両手でマリアをあやしながら、不服そうに晴美を見下ろした。

「退屈はないだろうけど、どうせ篭るならもっと環境が整った場所にするけどな、ぼくは」

ボイコットの名目で始まった篭城は、今やハンストと化している。用意周到に食料を持ち込んだとは思えないし、小森の話では昨夜も糸色は図書室から出てこなかったというから、きっと扉の向こうで衰弱しているのだろう。

「先生、大丈夫かしら」

優しい千里が眉を下げる。糸色はどんな言葉を望んでいるのか、彼女の慰めには応じなかった。もちろん、

「ああ、きっと私のせいです、ごめんなさいごめんなさい」

愛の低姿勢謝罪にも、

「心配するだけ無駄だね。心の弱さに反比例して身体だけは丈夫だし」

カエレのやや脅迫的な降伏要求にも糸色は屈しなかった。

本当に面倒くさい大人である。どうせいじけているだけなのだし、放っておけばいつか耐えられなくなって出てくるに決まっている。
それなのに彼を引っ張り出そうと呼びかけているのは、傷つけてしまった罪悪感からか、面白がっているだけなのか。
とにかく、2のへの生徒たちは手間のかかる担任が好きなのであろう。

彼らの会話に笑顔であいづちをうちながら、可符香はひどく冷めた目で見守っていた。
斜陽がそれぞれの横顔を照らす。時刻は四時を回った。

「でもさ、まさかとは思うけど中で自殺、なんてことはないよね?」

一度教室に戻ろうかという意見に話が流れたところで、ふと奈美が不安げに顔を上げた。彼女はみなの硬直した顔を見回して、自身が地雷を踏んだことに気付く。誰もが恐れながら口にしなかった言葉を言ってしまったのだ。

「……………………」

とたんに重くなる雰囲気と、失言に焦る奈美がいたたまれない。傍観者を決め込んだはずだった可符香はつい口を挟んでしまった。

「それはないよー。心配しなくても大丈夫」

可符香は糸色という教師の性格をよく知っている。理解はできないがわかりやすい。
疑わしげに視線を寄越すクラスメイトたちに確信を与えるように、可符香は首を傾けてにっこり笑んだ。

あの人は生に異常な執着を持っている男だ。恵まれた環境で育ち絶望なんて知らないからちょっとしたことにも打たれ弱い。死にたがるのは同情されたい裏返しで、けれど自分に甘いから命を絶つ勇気もない。だからこそ糸色という人間は、決して人のいないところで自殺しない人間である。

「だってここにはまといちゃんがいないでしょ? 先生のそばにまといちゃんがいるよ」

そしてもちろん、生徒の前で本当の自殺ができるほど無責任でいられる人間でもない。あの人はとんだ臆病者なのだ。誰かの心に傷を残すなどできるはずもない。
まず糸色は死なない。餓死すら器用に避けてしまうだろう。それなのにこうして引きこもってみせるのは、欲しい言葉を待っているから。

なんて傲慢な男だろう。

「だからきっと先生は大丈夫」

陽光と視線をまっすぐ浴びて、可符香は強く断言した。

いくらか説得力があったのか、友人たちの顔から影が抜ける。これでいい。糸色の尻拭いをするようで不愉快だったが、彼女たちに平安が戻ったのならよしとしよう。集団で落ち込まれるほどうざったいものはないのだ。

さて、これでもうここに留まる理由はない。
「もう帰ろうよ」と提案しようとしたところで、可符香はがしっと腕をつかまれた。

「可符香ちゃん!」
「…………はい?」

見上げれば期待に満ちた企み顔。思わず頬をひきつらせた可符香にかまわず、彼女らは可符香の背中に回ると図書室のほうへぐいぐいと押し出した。

「そうよ、ここに最終兵器がいたじゃない! 可符香さんの説得なら先生も出てきてくれるわ」
「えええ? 私?」

苦笑いを浮かべて両手を振るも、彼女たちは引かない。

「そもそも先生にとどめさしたの、風浦さんだしね」
「責任持って先生を立ち直らせてよ」
「えー……」

そんな面倒くさい。

思わず口に出しそうだった本音は飲み込んで、可符香はひそかにため息をついた。そう言われてしまったら、断ることもできない。それ以前に彼女たちの知る可符香ならここで拒否するようなことはしない。

「そうだなぁ。じゃあとりあえず」

仕方ない。可符香は図書室の扉をノックすると、まといに呼びかけてみた。

「まといちゃん? いる?」
「………………いるわ」

少し遅れて返ってきた返答にはいつもより覇気がない。放っておいたらまずいのは彼女のほうだろう。

「具合大丈夫? ここを開けてくれれば私たち助けに行くよ?」
「先生が望んでないことはしたくないの」

元気はないが、強い意志をこめた言葉を返されて可符香は呆れた。あの男にそこまで入れ込む魅力があるようには思えないが、運命共同体のつもりなら止める理由はない。

「なら、仕方ないね」と説得を終えたつもりで振り返ると、千里の魚目に出くわした。

「可符香さん。最後まできっちり説得して」
「うーん……きっちり」

迫力に押されもう一度向き直る。このままじゃ糸色を引きずり出すまで帰してもらえないんじゃないだろうか。キレた彼女に扉をぶち破ってもらうのも悪くないなどと考えながら、可符香は再び中に向かって呼びかけた。

「じゃあまといちゃん。先生そこにいる? 声聞こえるところまで連れてこれる?」
「……わかった」

まといの気配が離れたのは、糸色を呼びに行ったからだろう。それを待ちながら、可符香は悟られないように顔をしかめた。

実を言えば、糸色が望んでいる言葉などわかっている。そしてたぶんそれを可符香に求めているだろうことも。
糸色は思いのほか単純で底の浅い人間だ。暇つぶしにからかうにはもってこいだが、望まぬ言葉を強要されるのは面白くない。本来なら絶対その手の要求には乗りたくないのだ。

絶望を知らない幸せな男。不幸を嘆いて悦に浸る。
それは本当に不幸な人をあざ笑う行為ではないだろうか。本物の絶望を見た人を挑発しているつもりなのか。

ああ、腹立たしい。
可符香は糸色が嫌いだった。自分の対極に位置するその男が大嫌いだった。

「風浦さん。先生、つれてきた」

息の上がったまといの声が扉の向こうから聞こえた。糸色は沈黙している。

胸に凝る正直な思いを投げつけられたらどんなにかスッキリするだろう。しかし誰もそんな辛辣な言葉は望んでいないのだ。

ならば可符香はいつものように、笑顔で嘘をつくのみ。
こんな軽薄な言葉で期待に答えられるというのなら。

「先生。もう出てきてくださいよ。みんな寂しがってます。やっぱり担任は先生がいいんですよ。……みんな先生のことが大好きだから」
「…………あなたも、そう思ってくれていますか?」

数十時間ぶりに聞いた糸色のかすれた声。頷いたのは後ろに控える友人たちのため。

「もちろんですよ。私もみんなも先生が必要です」
「…………本当に?」
「ええ、本当に」

「先生が大好きです」

一日半閉ざされた図書室が開放されたのは、そのすぐのちのことだった。



笑顔で嘘をつく




望カフですらない。可符香が黒い。どこまでも黒い。
うちの可符香は笑えないくらいにデレがなくて、先生がかわいそうになる(笑える)
今回、他キャラを出すことに力を入れてみました。
すると大変、みんなの口調がわからない。マ太郎はしゃべり損ねたな。