人のものを欲しがるのは嫌いだ。競争するのも嫌い。 闘争心がないのは生まれつきか、過去の経験によるものか今ではもうわからないけれど、物心ついたときにはすでに奪い合いを傍観する第三者の立場にいた。 競争に参加しないから当然欲しいものは手に入らない。それでもかまわなかった。いつしか理想は形を失い、与えられるものだけで自身の世界を構成していく。それはわりと単調で、最低限の満足であると彼女は知った。 図書室の戸を開けると、重厚感をかもして並ぶ読書机に見慣れた学生服の背中を見つけた。静寂に遠慮して足音を忍ばせ近づくと、彼は最初から気づいていたように本から顔を上げて微笑みで出迎える。 「風浦さん」 「前、座っていい?」 「どうぞ」 穏やかな声音で了承を得て、可符香はどっしりとした椅子に浅く腰掛けた。 窓がないせいで図書室というより書庫と呼ぶほうが似合うこの場所は、陰鬱な印象が人を遠ざける。特に今日のように天気のいい日はわざわざこの場所で読まずとももっと明るくて心地よい場所が他にあるのだろう。この広い本の海に彼ら以外の気配はなかった。 向かいの少年は再び本の虫と化している。邪魔するつもりはないので、そわそわと忍び寄ってくる睡魔を来訪を待っていると、ふと彼が顔を上げないまま問いかけた。 「風浦さんはみんなと一緒に行かなかったの?」 みんなとは我が担任教師を慕う一部の女子生徒たちである。今日もまた珍妙な論理の末、袴の裾をからげて駆けていってしまった彼を追って、彼女たちも教室から姿を消した。 普段なら彼女もその一人のはずが、珍しく居残り組に甘んじた理由を彼は聞いているのだろう。 可符香は考えている仕草を装って、足を組んで右斜め上の書架プレートを見上げた。 「うーん……」 最終的な議題は確か先生の妻になる者は誰か、という話だった。件の教師の身体には無数の傷があるらしく、「それを知るのは彼の妻になる者のみ」との発言から発展したようである。 あれほど頼りない男だが、生まれ持った容姿と思わせぶりな態度が女生徒たちの気をひいてしまうらしく、仲の良い友人たちはみな彼へ好意を抱いていた。 「たぶん私には興味のない話題だったから、かな」 可符香がいつものように笑顔で小首を傾げてみせると、目の前の少年は突然パタンと本を閉じて顔を上げた。彼の穏やかな瞳は、時に相手の本心を探るかのように深く鋭くなる。 「そうかな? 本当に先生のこと興味ない?」 そしてあっさりと押し隠した思いまで見抜き、核心をついてくるのだ。 可符香は一瞬呆気にとられ瞠目したあと、浮かべた笑みにわずかの苦味を加えた。 可符香も自身の洞察力にある程度自信を持っているが、とうてい彼のそれにはかなわない。 以前、担任教師が「書だけではなく心も読めるのでは?」と疑心暗鬼に陥った気持ちも今ならばわかる。 ただし、ここでおとなしく指摘を認めるわけにはいかなかった。 彼女は少年の瞳に真っ向から立ち向かうように視線を交じらせ、完璧な笑みを繕った。 「もちろん、興味はあるよ。面白い人だもん先生。だけど私は先生のお嫁さんにはならない」 「どうして?」 単純な疑問符は、純粋な興味なのか、悪意なのか、それとも彼女を追い詰めるための武器なのか判断しがたい。けれども可符香は笑顔という鎧を崩さないまま、なんということもなしに答えた。 「だって先生にとって私は必要ないもの」 そらすことなく可符香を見つめる少年の顔がわずかに歪む。それがどんな感情から発したものかは考えたくもなかった。 「可符香ちゃん、それは変だよ。それじゃあキミの意思はどこにあるの?」 「私の意思は私の中だよ。誰にも見せないし、誰も触れさせない」 そう、たとえ可符香自身にさえも。 欲望も願望もすべて手の届かない奥底に押し込まれている。それはずっと控えめに主張を続け、これからもきっと叶うことはない。 だって競争したくないんだ。相手が大事な人たちならなおさら。奪われる悲しみは痛いほど知っているし、奪った罪悪感から目をそらせるほど傲慢でもいられない。 だから叶わなくていい。今のままでいい。 手にあるものだけで十分だから。 「それで満足なの?」 ついに少年は痛々しいとでも言うように可符香から目をそらした。そのことにほんの少しのさみしさと、大きな安堵を覚えながら、可符香は強く頷く。 「うん、幸せだよ」 現状に満足しています。だからどうか――奪っていかないで。 |
満たされた諦観 |
うちの可符香は器用な不器用。素直じゃありませんし、実は前向きでもありません。
だから可符香を本当の意味で見抜けるのは久藤くんだけかもしれない。
久藤くんが「風浦さん」と「可符香ちゃん」を使い分けるのは仕様です。
これでも望カフだと言い張る言い張る。