朝から嫌な天気だった。
太陽を覆い尽くす厚ぼったい黒雲は今にもしずくをこぼしそう。湿気を含んだ不穏な風はポストから取り出したはがきを3メートルも吹き飛ばした。
典型的な嵐の予兆。本能的な不安を感じながら、千里は空を見上げた。せめて学校に着くまではもってくれるだろうか。
とりあえず傘だけはしっかり持って、千里は家を出た。
千里に怖いものはない。自分の力でたいていの難題はある程度どうにかできるし、そうでないものは無意識に視界に入れないようにしている。怯えたりなんかしたくない。自分はいつでも強くありたいから、それを脅かすものは認めたくなかった。
…………だけど一つだけ、どうしてもかなわないものがある。


校門へ続く並木道にさしかかると、空気が急に変わった気がした。思わず肩をすくませた千里はほとんど逃げるように校門へ向かって走る。
知る者が見たら、らしくない千里の姿に目を丸くしただろうが、幸いまだ一般的な生徒が登校するには早い時間だった。
細く開けられた校門をすり抜け、乾いた校庭を横切る。静かな校舎に自分の焦った駆け足が滑稽に反響していた。
(校舎の中にさえ逃げられれば……)
思った瞬間、低い唸り声があたりにとどろいた。
ゴロゴロゴロ……
「っ!!」
足から力が抜けるのを感じる。転びそうになりながら昇降口までたどり着いた千里は、息を切らせて膝をついた。
朝の校舎の冷たい空気がひんやりと肌を包む。
唸り声はまだ続いているが、空が視界に入らないぶん千里の心は救われた。
「…………はぁー……」
そのまま下駄箱に寄りかかって深いため息を一つ。
自然現象だから仕方ない。わかっているけれど負けるのは悔しい。
臆病な自分に苛立たしさを覚えながら、千里は静かに呼吸を整えていった。


やがてぱたぱたと大粒の雨が落ちてきた。雷雲も去ったのか、聴覚にわずかの平安が戻る。そろそろ足の感覚も戻ってきたし、立ち上がらなければ誰かに見られてしまうかもしれない。
そう思って顔を上げた瞬間、千里の顔に影がかかった。
「木津さん、どうしたの?」
「!!」
そこには不思議そうな顔をする同級生、久藤准が立っていた。肩や前髪に1つ2つ雨粒が浮いている。ちょうど今駆け込んできたらしい彼を見上げて、千里は自分が青ざめるのを自覚した。見られた!
「な……なんでもないわ!ちょっと走ってきて、疲れただけ」
「そう。雨に濡れなくてよかったね」
穏やかに笑みを浮かべる彼の顔には他意はない。うまくごまかせたとほっとしながら、今度こそ千里は立ち上がろうとした。

そこへ突如ひらめいた閃光。久藤の向こうで世界が明滅した。間をおかずとどろいた轟音はまるで千里をあざわらうかのよう。
「…………っ!」
すっかり油断していた千里は久藤を見上げたまま硬直してしまった。再び襲来した恐怖心が、逆らえない強引さで千里の意識を覆う。
「雷、すごいね」
「………………」
「木津さん?」
断続的に繰り返される明滅、轟音。怪訝そうな顔をする久藤にとりつくろう余裕もなくて、千里はひたすら耐えた。
どうか涙が浮かばないように、決して震えたりしないように。
……過去にトラウマがあるわけではない。ただ光ったりとどろいたりするだけのあれが、どうしてこんなに不安を心の底からすくい上げてくるのだろう。
かなわない、どうやったって天の意思にはかなわない。

「そうか、雷が怖いんだね」
ふと雨音と轟音の隙間に、するりと滑り込んだ声があった。それはひどく優しくて、どこか愛しさすら含んでいるようだった。
「……大丈夫だよ」
その声を最後に、暖かいてのひらで聴覚がふさがれる。そのまま視界が白い学生シャツに押し付けられて、千里の世界は穏やかに封じられた。
現実が遠ざかっていく。胸の中で主張して暴れまわる恐怖が、徐々に沈んでいく。
気付けば千里は完全に久藤へもたれかかっていた。残された感覚が久藤の体温や、少し雨を含んだ彼の匂いを如実に捉える。

やがて恐怖が消え、千里らしい冷静さが立ち戻ってきた頃、再び千里の心を乱したのは急激な羞恥心だった。肌や鼻腔を刺激する感覚が、熱となって身体を駆けめぐっていく。
「く、くどうくん……」
「ん?」
両手をパタパタさせて焦る千里とは対照的に平然と返事を返す久藤。彼は千里の耳に当てた手を放さないまま、その顔を上向けた。至近距離で交わった瞳に千里の頬が紅潮する。
儚げな淡さを持つ深い色。しかし、その奥に秘された感情に違和感を感じて千里はふと不安を覚えた。
隠し続けてきた弱い千里を知った少年。それは千里にとって許せない存在だが、彼の表情には弱点を利用しようとする悪意は感じられない。けれど決して安全な存在とはいえない危うい意図を含んでいた。
あの雷と同じように、かなわない何かに対峙しているような。


しばし、腹をさぐるように見つめあったあと、久藤はゆるく千里を介抱した。戸惑う彼女を見下ろして、何事もなかったかのようにふわりと微笑む。
「大丈夫、みなかったことにしておいてあげる」
そこに隠された感情が何と呼ばれているのか、千里には気付くことができなかった。




本能的恐怖心




うちの准くんの優しさにはいつも下心がある……。
穏やかそうに見えて、実は攻め攻めしいのが好きです。
でもそうすると千里ちゃんがおとなしくなってしまうのが残念……。