安定とはつまり道理が通っていることだと思う。
秩序が社会を制しているのはそのためだし、現に我々はある程度満たされている。
だから野蛮といわざるを得ない自然発生物は修正を加えるべきであり、それが叶わないならばっさり排除するべきなのだ。
生まれ持った気質ゆえ、千里はそうした矯正や排斥が好きだった。無秩序なものを見るとイライラするが、自分の手で正していく過程は楽しい。
もしかしたらそこに征服欲や支配欲を感じていたのかもしれない。
つまり放課後の教室整備は千里の趣味…あるいは至福の時間と言っても過言ではないのだ。没頭してしまえば、嫌なことも悲しいことも忘れることができた。



男子たちによって好き勝手に落書きされた黒板を濃緑に再生させた千里は、粉のついた手を払うと自らの仕事の出来に満足した。
この黒板が毎朝きれいなのは千里のおかげだと知っている者は少ない。それどころか黒板がきれいだということにすら気付かない者もいる。
しかし千里にとって評価などどうでもよかった。これはただの自己満足なのだから。

寄り掛かっていた教卓が嘲笑うようにきしんで、千里はわずかに顔をしかめた。
千里が立つこの場所はいつもあの人が立っている定位置。やんわりと、しかし確実に拒まれた数十分前の出来事が嫌でも思い返されて、きつく唇をかみしめる。

「…っ!」
考えるな。それは千里の安定を揺らがせる思考。

込み上げた熱い感情から目をそらすため、千里はそのまま教室内を振り返った。
個性的な生徒たちを体言するかのような、まとまりのない32の机が並ぶ。それぞれ好き勝手な方向を向いていて、すでに列とは言えない。

実に無秩序だ。混沌だ。
修正されたものを愛する千里の心に当然沸き上がった感情は、ところが純粋な苛立ちだけではなかった。
苛立ちの影に隠れて空っぽな泡のような想いが浮かび上がる。
こうして見ればどれも同じく見えるのに、あの人はこの中から特別を選んだ。千里ではなく、あの人にアピールしていた他の女生徒でもなく、あの人が選んだたった一人を……。
どうして、と思う。ひどい、と責めたくなる。
けれど理由を求めたところで、あの人からはっきりとした答えが返ってくるとは思えない。あの人は時々、千里が堪えられないほどの混沌を垣間見せた。
それが何を示していたのか、何を求めていたのか。千里にはたぶん理解できることはない。


夕闇迫った窓の向こうを見つめながら教壇を下りると、ふと無人のはずの教室内に気配を感じた。
一瞬すくんで振り返ると廊下側の一番前、ちょうど千里の死角だった席に少年が座っている。彼はほぼ真横を向いた机に肘をついて文庫本をめくっていた。

「久藤くん…」
「いつもお疲れ様、木津さん」

いつからそこにいたのだろうか。確か千里が整備を始めた時はすでに誰もいなかった。
クラスメイトたちは千里の不機嫌を察して早々に下校してしまったというのに、平然と本を読み続ける彼はまだ居座るつもりらしい。
ここを千里の場所だと主張するつもりはないが、机の整列に支障があるのは否めない。
至福の時間を邪魔されたことも含めて、千里は少々強く准に抗議した。

「本なら図書室で読みなさいよ」
机に両手を突いて向かい側から威圧的に見下ろす。千里を見上げた彼は怯むことなく平然と答えた。

「今行ってきたところ」
下がり気味の瞳は感情の読めない不思議な色。

「だったらもう帰れば?」
「木津さんは?」
「私は…まだ残っていくわ」
「じゃあ僕も。暗いから送っていくよ」
「……………」

日は沈んだが一人で帰れないわけではない。
特に今は誰にも構われたくないのだ。一人で心の中を整理して安定を取り戻したい。
善意はお節介でしかなかった。

「結構よ。それより今から机を整えるの。どいてくれない?」

先ほどよりさらにはっきりと迷惑を主張すると、准はパタンと文庫を閉じた。困っているようにも怒っているようにも見える奇妙な表情で千里を見上げる。

「木津さん、なにかあった?」
静かで低い声。千里は思わず身体を強張らせて、ぎこちない笑みを浮かべた。

「どうして?」
彼の瞳がすっと細くなる。
まるで千里の心を見透かすかのよう。見つめられている、ただそれだけなのに、そこはかとなく不安を覚えた。それは恐怖にも似ていた。
彼はわずかに身体を伸ばすと、身を引こうとした千里の頭にそっと右手を乗せる。

「…………目の奥が揺れてるから。こんなに頼りない木津さんは珍しい」

意外に大きくて暖かな手のひらが、千里をなぐさめるように軽く撫でた。
あまりに優しいその動きに、こらえていたものがあふれ出す。認めたくなかったものを突き
つけられる。


「……やさしくしないでよ……」

この手がなければ、ギリギリの安定を保てたのに。
千里は机に両手をついたまま、力を失ったようにうなだれた。落ちてきた髪の合間をぬってポタリポタリと雫が落ちる。

涙は混沌だ。安定していれば人に涙なんかない。
だから千里は涙と無縁のはずだった。常に安定を求める千里に、理屈で処理のできない不安定な気持ちなんてありえなかった。
それなのにどうしてだろう。
あの人に受け入れてもらえなかった、ただそれだけの事実がこんなにも千里を乱し苦しめる。
目をそらしていたかった。あの人の気持ちも、言うことを聞かない己の無秩序な意思も。
道理の通らない気持ちを抱く私なんて、私じゃない。
排除してしまうつもりだった。きっとうまくいったはずなのに。
あふれ出した混沌は、情けないことに彼の前で暴かれてしまった。


「無理をすることが、正しいわけじゃない」
だからそれでいいんだよ、と低い声が囁いて、千里は机に突っ伏した。

彼の言葉に賛同はできない。千里の今までを否定するのと同じだから。
だけど今だけは、都合のいい言葉に甘えてしまってもいいかと思えた。彼のお節介のせいにして、ほんの少しだけ。

頭の上のぬくもりは、彼女の呼吸が安定するまでずっとそこにそえられていた。



不安定飽和状態




やってしまった准千里。
千里ちゃんを受け止めてくれる准くんはいいよ!
妄想が止まらないーー……。