独自の特殊な文化を持っているミズホの家では、靴は脱いで上がるものらしい。
玄関引き戸をくぐってすぐの不自然な段差に足をかけようとした瞬間、後ろから姉のゲンコツが飛んで来て、ジーニアスは慌てて足を下ろした。そういえば、そんな風習など知らなかった初回に、姉弟そろって屋敷の主に苦笑混じりの叱責をいただいた覚えがある。
「そうだったね」と頭をかくと、賢い姉はすでにブーツの紐を解いて段差に上がっていた。
「ごめんください」
玄関から真っすぐに伸びる廊下に向かって呼び掛けると、ひんやりとして薄暗い板敷きに声が反響して消える。温暖なシルブァラントの土地に比べて、ミズホの里の冬は極端に厳しい。冷たい風がないだけマシだが、日が入らないせいで家の中でも冬を感じた。
「あー誰よ? こっち、勝手に上がって来て」
やがて姉の呼びかけに鈍い答えが返ってくると、二人は思わず顔を見合わせた。気だるげな男の声。当然聞き覚えもある。何しろ彼は三年前共に世界を統合した仲間なのだから。
問題は……なぜ”ここ”で?
ジーニアスは訝って表札まで確認したが、間違えたわけではなさそうだった。
『藤林』
ミズホの里の女頭領の家だ。
「本人に答えてもらいましょう」
何かを察しているような姉に促され、ジーニアスは転びそうになりながら靴を脱いで冷たい廊下へ足をかけた。


声の聞こえたふすまを開けると、部屋の真ん中にコタツがあった。以前しいなが言っていたミズホの冬の風物詩、だと思う。これに入ってみかんを食べるのが通なのだそうだ。
そのコタツに背を丸めて座っていたのが、先ほどの声の主。ゼロスだった。
「よー、お前らか、久しぶりー」
片手をひょっと上げ笑ったゼロスの顔は、以前よりさらに精悍さを増して大人びて見える。そういえば、この男も二十五になるんだっけなと思い返し、ジーニアスはなんだか複雑な気持ちになった。
「ひょー、リフィル様ってばますますビューティー! 大人の色気ってやつ? これじゃ男もほっとかないでしょ」
「あいにくと、私には頼りになるナイトがついていてね」
「ああ、なるほど。ひゃひゃ、よかったなーがきんちょ。『小さな』からは卒業したか」
「わかってるんだったら『がきんちょ』もいい加減やめてくれる?」
姉と並ぶほどには伸びた背を主張するように背筋を伸ばしたジーニアスは、からからと笑う男を見下ろした。長かった赤髪はばっさりと切り落とされ、以前ほど軽薄な印象はない。けれどあいかわらず一言しゃべればこの有様だった。
「まあ座れよ」とすすめられたコタツの中に冷えた足を忍び込ませた姉弟は、そのほんわかとした優しい温度に無意識にこわばらせていた肩の力を抜いた。ついでに両手もコタツ布団の中に入れて擦り合わせる。これがなかなか気持ちいい。冬の風物詩も伊達ではないようだ。

「お二人さん、茶でいーい?」
しばらくぬくぬくと暖まっていると、コタツに手をついて立ち上がりかけたゼロスがふと聞いた。
「え、あ、……うん……?」
一瞬何のことだかわからず、顔を上げると先ほどとは逆にこちらを見下ろしているゼロスが、ミズホ独特の着物とかいう装束を着ていることに気がついた。派手な見目の彼には少し地味すぎる格好ではあったが、似合わないわけでは決してない。本当になんでも着こなす男だなぁと、半ば呆れにも近い感心を抱いて、部屋を出て行くゼロスを見送った。
そして。
「……茶って……ゼロスが入れるのかな?」
「そうなんじゃないかしら。他に人がいる気配もないし。……ちょっと想像つかないけど」
「だよね、あのお貴族様が」
残された姉弟は微妙な顔をして肩をすくめる。まさか彼が客のために自分から動くとは信じがたかった。なんでもやってくれる優秀な使用人たちに囲まれて育った彼は、旅の最中にもあまり率先して給仕をすることはなかったように思う。まあ、食事当番が当たったときには意気揚々と料理をしていた後ろ姿は印象に残っているから、もともとそういうことが嫌いなわけではないのだろうが。

「っていうか、それ以前に、ここしいなのうちなんだけど……」
姉に訴えるつもりで呟いた言葉に、苦笑交じりの嘆息を漏らして、彼女はふと気付いたようにゼロスの座布団の後ろから何かを引っ張り出した。赤い毛糸玉とマフラーのようなもの。編み棒がささったままのそれはまだ編みかけのようだった。
「あら、けっこう上手」
目を丸くした姉の手元を覗き込むと、なんというのかわからないが凹凸のある模様まで丁寧に編みこまれている。二人でそれに感心していると、盆を持って戻ってきたゼロスが、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「あー、触るなよそれ。編み棒すっぽ抜けるとえらいことになるんだから」
湯気をたてる緑茶の湯飲みをそれぞれの前に並べると、みかんの乗ったかごをどんと置いて、再び彼は定位置らしいその場所にいそいそと足を伸ばした。姉の手から網掛けのマフラーを取り返すと、慣れた手つきで糸を指にからませ棒を動かし始める。
その華麗な手さばきに、思わず姉弟は見惚れた。
「それ、ゼロスが編んでるの?」
「おうよ。もとはしいながやってたんだけどよー、あいつこういう細かい作業苦手だから、さっさと放り出しちまったんだ。だから続きを俺さまが」
「そーだよ! しいな! ここしいなのうちでしょ? なんでゼロスがいるのさ?」
やっと本人の口からこの家の主の名前が出て、ジーニアスは身を乗り出した。しばらくは里にいるから遊びにおいでと手紙をくれたのはしいなだったはずだ。近くに寄ったこともあって訪れた彼女の家で、どうして他人のゼロスがこんなにくつろいでいるのか。

ジーニアスの詰め寄るような剣幕に、編み棒から顔を上げたゼロスの顔はきょとんとしていた。「なんだ、知らねーの?」と言ってニヤリと笑う。
「俺さまぁ、もうすぐ藤林ゼロスに改名するわけよ」
「ええ!?」
「あら、やっぱりそうだったの。あなたにしてはずいぶんのんびりしてたのね」
目を丸くして驚いたジーニアスとは対照的に、姉は茶をすすりながら平然と返した。すると、過去の苦労を思い出したのかガックリと肩を落としたゼロスが恨みがましく言い訳のような呟きを落とす。
「そんなことないのよ、リフィル様。俺さまこれでもそーとー頑張っちゃったわけ。しいなもあれでかなりの頑固ちゃんだし、完全に落とすまで苦労したんだから」
「へえ。ま、今までの行いの悪さもあったのではなくて? 自業自得ね」
「あらら、冷たい」
「なに、姉さん知ってたの!?」
以前と少しも変わることのない姉と男のやりとりに、しばし呆然としたジーニアスは、はっと我に返ると今度は姉に詰め寄った。どうりで最初にゼロスの声に出迎えられたときも驚かなかったはずだ。「ずるい」と眉を寄せると、腹の据わった姉は怯まむことなく「だってねえ」とみかんに手を伸ばす。
「あの旅の時からそんな雰囲気あったじゃない。こうなっても全然おかしくはないわ。ま、驚いたのは事実だけどね。まさか婿入りとは」 「最初はしいなをメルトキオに連れてくるつもりだったんだけどなー。あいつ強情だから『頭領の責任を放り出すわけには行かない!』とかなんとか言っちゃってさ。だったら俺さまがムコに行ってやろうじゃねーのってことで押しかけたのよ。これぞ押しかけ旦那?」
なんだかその様子が目に見えるようだった。きっと彼は今のようにしいなの留守中に忍び込んで当然のようにここでしいなを待ち受けたのだろう。抱きつく彼を真っ赤になって押し返しているしいなの表情まで想像はたやすい。
なるほど、確かに姉の言うとおり、こうなっても全然おかしくはないのだろう。

「まああなたなら既成事実でもなんでも引っさげてご隠居を脅すことくらいしそうだけれど……」
みかんを口に放りながら冷然と言い放った姉は、何かを考えるときのくせで中空を見上げて言葉を切った。顔を手で覆って「その言い方はないんじゃない……リフィル様」と嘆いたゼロスの方も、否定しないところを見るとそれに近い事実があったのかもしれない。リアルに想像しそうになる自分の頭をぶんぶんと振って、ジーニアスは姉の言葉を待った。
「よくここの一員になるのを許されたわね。だってミズホって今でもシノビの仕事を生業にしてるでしょう? あなたのような派手派手しさじゃ、そんな仕事は勤まらないんじゃなくて?」
「あー……それな」
すると今まで軽薄だったゼロスの雰囲気がふっと真面目になった。コタツの上で指を組むと、あまり言いたくなさそうに口ごもる。それからしばらく「掃除洗濯」だの「立場がない」だのはっきりしない言葉をぼそぼそ呟いた後、パンと手を打って。
「要するにだ! 俺さまは選ばれし男として藤林家に婿入りが許されたわけだな!」
「……は?」
「愛するお嫁さんのために炊事洗濯家事全般を極めた選ばれし超人! その名を主夫という!」
「…………あらあら、ほんとに押しかけ“女房”になっちゃったのね」
自身の立場をなんとか正当化しようとごまかしたゼロスに、容赦なくいやみを吐き捨てた姉は唇の端を歪めて意地悪く微笑んだ。バッサリ切られてもう言い返す気も起きないのかコタツに突っ伏したゼロスは、それでもどこか満足そうだった。

「まーそういうことでございますよ。今日もお仕事で里の会議に出席中のしいなさんのために、しっかり掃除洗濯すませたし。んで、夕飯作って帰りを待つわけ。あー、俺さまってケナゲ」
「それって尻に敷かれてるんじゃないの?」
「あー? 別にいんだよ。もともとこういうこと嫌いじゃねーし。ま、男としてどーしても譲れない部分はあるけどな。そこだけ守れれば主夫だって楽しいもんだぜ」
「なーんか、ゼロスらしくないような気がするけど……」
社交的で世渡り上手な彼が家にこもっていることに満足できるのが不思議でならなかった。ジーニアスの知る彼はもっと広い世界で活動することに幸せを見出すような人物だった印象があるのだが。
釈然としない、という表情で黙り込んだジーニアスに、ゼロスは眉を上げて声もなく笑んだ。その仕草に三年前の軽薄さは残るものの、新たに落ち着きとか安らぎのようなものが見えた気がして、ジーニアスは目をそらす。奇妙な気分だった。
自分の背が伸びたのと同様に、ゼロスも大人になったということなのだろう。目に見える成長ではないのかもしれない。けれど彼は破天荒だった三年前に比べて、確実に大人として落ち着きや分別を得たに違いない。
そこに一抹の寂しさを感じるのは、きっとジーニアスのエゴなのだろう。


「ただいまー」
玄関から引き戸を引く音とともに懐かしい女の声が聞こえて、ジーニアスは姉と顔を合わせた。確認するまでもなく、ゼロスがさっと立ち上がって部屋を出て行く。閉めたふすまの向こうから、彼女の名を呼びながら小走りに駆けて行く男の足音が聞こえた。
「……なんかさ、幸せそうだよねゼロス」
「人一倍、愛に飢えてた男ですもの。こういう普通の幸せが、本当は一番欲しかったものなんじゃないかしら」
いつも捕らえどころがなくて、へらへらと自分と他人をごまかして生きてきたゼロス。神子で貴族でナルシストで。華やかに窮屈に生きてきた彼が、こんな平凡を欲していたなんて言われてみないとわからなかった。
けれど今、それを手に入れたゼロスの持つ雰囲気は、以前のように斜に構えたところもなく、痛いほどのとげとげしさもなく、穏やかに優しさと落ち着きをまとっている。
もしかしたら本来のゼロスというのはこういう人物だったのかもしれない。そしてそんな彼を以前よりもっと好ましいとも思う。
「いーって! ちょっとおかえりの『ちゅー』したくらいでこの仕打ち! 旦那様に対してひどいんじゃないの?」
「ああああんたのそれは『ちゅー』なんてかわいらしいもんじゃないじゃないか!!」
何やら騒がしくなった玄関をのぞくためにジーニアスはコタツから抜け出した。ふすまの隙間から顔を出すと、愛妻にじゃれつくゼロスと真っ赤になってそれを押し返すしいなの姿が見える。ゼロスの左頬には真っ赤なもみじあと。
あいかわらずの二人に肩をすくめた姉弟は、笑いながら彼らに手を振った。


たとえばこんな平凡が


 

 ゼロしい結婚捏造話。ラタトスク前に出せてヨカター。
 この話はまだ正式に結婚してないんですけど、もし二人が一緒になるならミズホの方で暮らすんじゃないかなーと。
 RRTでゼロス皿洗いが好きって言ってたから、たぶん主夫になれる! 選ばれし男! ……ていうのはアビスチャットでしたかね。