半分しか血の繋がらない兄のことは、幼いころからずっとひそかに慕っていた。
女好きで、真面目じゃなくて、要領がいいのに不器用で、とても見習えるような人じゃなかったけれど、彼女にとっては唯一の兄で、誰にも代わりにはなれない大事な人だった。
今だってその思いは変わらない。しかし、彼女たち兄妹の間には長らく、並ならぬしがらみと誤解と、遺伝子らしい意地っ張りが構成した堅固な壁が立ちはだかっていて、残念ながら良好な兄妹仲を築けていなかった。
兄が関わったらしい前代未聞の再生が成功した後、セレスはワイルダー家の屋敷に新たな住人として招かれたけれど、その壁を乗り越えることも壊すことも簡単ではない。その上、兄のあの性格には、女である彼女には見過ごせない部分も多々あるのだ。
兄妹仲は依然険悪。ケンカが絶えないのはそのせいだった。

「まったくもう! あの女好きはなんとかならないのかしら!」
今日も一発派手な言い合いを交わして、セレスは屋敷を飛び出した。日傘を差しかけるトクナガが小走りになっていることにも気を止めずに、上級街を足音高く突き進む。
……追ってきやしない。
どんな罵声にもいつものスタイルを崩さない兄の顔を思い出して、セレスは歯噛みした。
たった一人の妹にさえ、他の女と同じ扱いをしているのだとしたら、非情すぎる冷淡な公平さはむしろほめてやるべきなのかもしれない。
皮肉たっぷりにそう考えたら、さらに苛立った。こんな街中では感情に任せて大声を出すわけにも行かないから、身体の内側に溜まった怒りは結局下方へ落ちる。逃す先はつま先。
わけもなく走り出したセレスにとうとう追いつけなくなったのか、運動不足の中年執事が呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。
本当は激しい運動をしてはいけないのだけれど。もともと走ることは好きなのだ。こんな気分のときくらい、律しなくてもいいだろう。
(お兄様のバカ! 女好き! 妹なんだから少しくらい特別扱いしてくれたっていいじゃない)

心の叫びにいつの間にかにじんでいた視界が、突如閉ざされる。同時に顔面に訪れた柔らかな衝撃に跳ね返されて、セレスはへたりと石レンガ敷きの路面にしりをついた。
「わっ、危ないじゃないか!……ってセレス?」
「!」
女性にしては低めの甘さのない声に、セレスは見上げずとも衝突相手を悟る。いつものそっけないブーツではなく、薄紫色のヒールであることにわずかな違和感を感じながら、内心「げっ」と悪態をついた。
顔を上げないまま、どころか謝罪も述べないまま、ムスッと立ち上がる。相手の差し出した手には見向きもしないまま、服の汚れを払った。
間の悪いときに一番会いたくなかった人物に会うなんて、偶然とは悪意あるいたずらと紙一重だ。
目だけを上げてうかがうと今度ははっきりと違和感の正体に気付いた。シルクグローブをしている。それも正装用の。そういえば服も見慣れた妙な装束ではない。
……セミイブニングドレス。夜の礼装。

そこでやっとセレスは頭を上げた。ちょうど目の位置に先ほど顔から突っ込んだのであろう谷間がある。つい見惚れてしまってから、慌ててその上の顔を確認した。
ドレスに合うように華やかな化粧を施した彼女は、藤林しいな。以前兄の冗談に騙され、斬りかかった女だ。その最悪な出会いから数年、仕事だなんだと何かと兄に関わる彼女は、冗談を真実に変え始めている。要するに兄の非情なる公平から唯一ずれている人物なのだ。大嫌い。

セレスの目には当然ながら敵意が浮かんでいたのだろう。ムッと眉を寄せた彼女は不満げに腰に手を当てた。
「いきなりぶつかってきておいて、なんだい。謝りもしないのかい」
ドレスアップしていようが変わらない粗雑な言葉遣い。セレスも真似をするように腰に手を当てて言い返そうと息を吸い込むと、ふと彼女の顔色が変わった。驚いたような少し哀れむような。
「……やだ、あんた、泣いてたのかい?」
「なっ! 泣いてなんか!」
反射的に頬に手を当てるとなんのことはない、乾いている。だが先ほどにじんだ涙のせいで充血くらいはしているのかもしれない。しいなは痛々しいものを見るように目を細めると、手を伸ばしてきた。間違いなく「かわいそう」とか思っている。
バシッと手を跳ね除けると、セレスはつんと顔をそらした。
「あなたなんかに関係ありませんわ!」
「またゼロスとケンカしたのかい?」
「っ!」
呼吸が一瞬止まる。目だけが発言者を見咎めるようにそちらに向いた。

……なぜそれをこの女が知っているのだ。そもそも「また」とはなんだ。繰り返していることをどうして知ったように話すのだ。
わかっている。その理由なんて一つしかない。セレスが話していないのだから、もう一人の当事者が話したのだろう。彼にとって特別の位置にあるらしい彼女へ。何にも本気になれない兄が、どうやら真面目に思いを寄せているらしい女へ。
屋敷を飛び出したときの激しい感情が、あの時よりさらにはっきりとした形を持って胸に蘇った。先ほどは怒り、と表現したけれども、実はそんな単純な感情ではないことをセレスは気付いている。
怒りのベースにみじめさとさびしさを加えた悔しさに近い感情だ。
他人の彼女を特別に出来るのに、どうして自分は特別にしてくれないのか。いつだって、兄を思っていたのに。いつだって真剣だったのに!

気付けば再び涙が流れていた。困ったような彼女の視線がちらちらと背後に向かうのは、執事が追いついたからだろう。けれどそんなことは関係なかった。
「そうですわ! またケンカですわよ。お兄様はどうせわたくしなんてどうでもいいのです。ふざけた態度で、ちっとも相手にしてくれなくて!」
「お嬢様、落ち着いてください」
「黙りなさいトクナガ! わたくしは一言言わないと気がすまないのです。やっとこちらを向いてくれた兄の隣に、どうしてあなたが堂々と居座るのですか! あなたがその位置にいるから、わたくしはその他大勢の遊び相手と同じ扱いにされてしまうのです! ずるいのよ……」
自分の発言はまるで子どもだ。わがままでしかない。
わかってはいるのに止められなかった。あふれ出す涙と同じく、尽きない激情。涙でおぼろげな視界では確認できないが、きっと目の前の女も呆れ返っているだろう。
嘆息するような、わずかな呼気を感じた。
「あんたも難儀な性格だねぇ。そんだけしっかり自分の気持ちがわかってるんだから、それを本人にビシっと言えばいいのに」
彼女の間延びした口調には、軽蔑の気配は微塵もない。こぼれた苦笑には慣れた響きを感じた。
「ねえ、セレスさ。あたしが言っても信じないかもしれないけど、ゼロスはすごくあんたを大事にしてるよ。その他大勢なんてとんでもない。あんたに対しては至極真面目だよ、あいつは」
「うそですわ。今だって現にケンカして飛び出したわたくしを追いかけてもくれない……」
「それはだから、あいつも臆病だからさ。追いかけて拒絶されるのが怖いんだろうと思うよ。その他大勢ならどう思われようが関係ないけど、あんたに限っちゃ嫌われるのは絶対避けたいことなんだ」
「お兄様が……そうおっしゃったの?」
「言ってないけど、予想はつくね。最近やたらわかりやすいから、あの男」
半眼で頬をかいた彼女の顔がボンヤリ見えた。止まらなかったはずの涙が不覚にも彼女の言葉であっさり引いていく。けれど慰められたということを認めるのは悔しかったから、セレスは首を振った。
「お兄様のことを知ったような口ぶりで話すのはおやめになって!」
「はいはい、わかったよ。それじゃ自分の目で確かめてみるんだね。屋敷に帰ってみな。きっとあんたのことでおろおろしてレセプションのことなんかすっかり忘れている兄貴の貴重な顔が見れるはずだよ」
「…………は?」
いつのまにか落ちてきた夕日にちらりと目をやって、彼女は面倒くさそうに手を振った。
「それからついでにあいつにこう伝えておいて。『こっちはなんとかやっておくから、逃げてないで伝えてごらん』ってね。あんたはもう受け止める準備も覚悟も持っているようだしね」
いまいちわからない伝言を受け取っていぶかしむセレスをしり目に、彼女は「それじゃ」と勝手に別れを告げて歩き出した。背後でトクナガが「お気をつけて」と返すのを呆然と見送りながら立ち尽くす。

気付けば彼女と同じような礼装をした紳士淑女がぽつりぽつり集まり始めていた。のろのろと歩きながらみな一様に同じ方向へと向かっている。
しいなが向かった方向、レセプションセンター。あそこでは頻繁に記念パーティだの、祝賀会だの、華々しいことをしているらしいが、どうやら今日はしいなや兄が関わる集まりらしい。
どの女性もエスコートされて歩いているのに、一人身軽にスタスタ歩く彼女の後ろ姿が強いようにもみじめなようにも見えた。センターに近づいた場所で若い男性に声をかけられると、おされ気味の談笑の後やや強引にエスコートされて会場内に消えていく。
一部始終を見送って、セレスはやっと我に返った。
「トクナガ」
「はい、お嬢様」
「帰りましょう」
ここまで走ったときの心情とはまるで正反対の心持で、セレスは帰路についた。激情は期待に変わり、静かに落ち着いている。
自分が知らなかった、いや気付かなかった兄の心情を想像しながらの道のりは、とても短く感じた。
この扉を開けたとき、兄はどんな顔をしているのだろう。しいなの言葉を全て信じたわけではないけれど、いないということは考えられなかった。まだパーティには行っていないはず。
トクナガが扉を開けるのがいつもより遅い。

「よー、お帰りー」
果たして、やはり兄はそこにいた。まだ着替えてもいない。いつものだらしない格好で、いつものように気だるげに顔を上げた。玄関ロビーの簡易ソファに深く腰掛けて、軽く手を上げている。どこかほっとしているような、無理をしているような、不安定な態度だった。
「悪ぃなセレス。お前いなかったから、勝手に茶菓子食っちまったぞ。そうそうあれ、なかなかよかったな。どこで買ってきたんだ? セバスチャンが知り……」
「お兄様」
先ほどのケンカを気にしているのは明らかなのに、関係のない話をぺらぺらと口にのせる兄のセリフを、セレスは強い呼びかけで打ち切った。ピタリと口を閉じて見つめてくる兄の瞳を、同じ強さ見つめ返す。
「なんだよ」
「わたくしのこと、心配しました? わたくしがお兄様を嫌いになるんじゃないかと思って、怖かったですか?」
「……………………」
ピクリと兄の形のいい眉が動いた。皮肉げにも見える笑みを浮かべて何か言おうとしたのを、再度の呼びかけで遮る。
「お兄様。わたくしはお兄様にとってどんな存在ですの? 隣家のお嬢さんや下町の娘と同じ?」
「お前、どこで何を吹き込まれたんだよ」
「吹き込まれてなどいませんわ。質問しているのはわたくしです。真面目に答えて」
兄は面倒くさそうに後ろ頭をかいた。よく見る癖。それを見て、自分はいつもふざけているのだと勘違いしていたけれども、本当は違うのだ。これはきっと、困っているときの癖。
兄は観念したようにため息をついた。かすかに苦虫を噛み潰した顔で、「しいなだな」と毒づく。やがて兄はこちらを見ないまま、もぞもぞと口の中で呟いた。
「同じなわけないだろ……お前は妹なんだ」
聞き取れたのは奇跡に近い。目を丸くしたセレスを見上げて、慌てて何か言い訳をしている兄が、とても身近にかんじられた。
本当に兄は真面目に向き合ってくれていたのだ。かなりわかりにくい表現だったとしても、それだけでセレスは嬉しかった。
だから自分も言わなければ。
「お兄様。……わたくし、嫌いになんてなるはずありません。だってお兄様ですもの」
「―――っ!」
瞬間、ほのかに染まる兄の頬。いつも軽薄なふてぶてしい笑顔しか浮かべないその顔に、そんな表情があるだなんて知らなかった。ついこちらまで赤面してしまい、気まずい空気が流れる。
素直になれるのはいいことだが、意地の張り合いが標準モードの彼ら兄妹間では、それは羞恥以外の何者でもなかった。遠回りして誤解を生んで、そしてたまに羞恥をおして本心を言えたなら、それが一番自然な形だろう。もしこじれてしまったときは、また彼女に頼ればいい。今度はきっと彼女にも素直になれそうな気がするから。

そう考えて、セレスはふと伝言を思い出した。玄関ロビーの振り子時計はすでに六時を回っている。もしレセプションがあるのなら、すでに始まっているはずだ。
「あの、ゼロス様……水を指すようで申し訳ないのですが、今夜のご予定は……」
セレスの代わりにそれを指摘したのは、ずっと背後で控えていたトクナガだった。あの会話を聞いていた彼のことだから、きっと気になっていたに違いない。セレス自身は自分のことで精一杯だったから、すっかり忘れていたのだけれど。
兄ははっと時計を振り返った。その顔がみるみる青ざめる。それも珍しい表情ではあったのだが、価値を喜べる状況ではなかった。 「セセセセバスチャン!!」
「セバスチャンは、昨夜から暇をいただいて里帰りしております」
「そうだ! わー、マジかよ。やべえ、しいなに殺される!!」
「そのしいなさんですけど、こっちはなんとかしておくからっておっしゃってましたわ」
ほとんど転げるように立ち上がって階段を駆け上がっていく兄の背中に、いい逃さないようにとセレスは伝言の必要部分だけを伝えた。その言葉に階段半ばでぴたりと立ち止まった兄は、怪訝そうな顔で階下のセレスを振り返る。
眉が片方跳ね上がっていた。
「お前ら、しいなに会ったのか?」
「ええ、さきほど。一人でセンターへ向かわれましたわ」
「エスコートも無しに?」
「ああ、そういえば。センター前で声をかけられてその方にエスコートされていくのを見ましたけれど」
「ほら見ろ。あいつすぐにひっかかるんだ! 俺がしてやるって言ったのに!」
叫ぶや否や二段飛ばしに駆け上がって自室に駆け込むと、数分もしないうちに礼装に着替えて降りてきた。髪が乱れているが、かまっている暇はないのだろう。上着を引っ掛けながらセレスの横を通り過ぎた兄は、扉を開ける寸前、こちらを振り返る。
「ということで、悪いなセレス。お兄様は行かなきゃならないが」
「しいなさんは任せてくれとおっしゃってたんですのよ」
「仕事は任せられるんだけどなー、自衛についてはあいつはてんで無能なんだよな。あのスーパーナイスバディを安売りされるわけにゃいかないんだよ」
言葉はふざけているが、表情は至って真面目だ。焦りを隠そうともしない兄の態度にセレスは苦笑するしかなかった。
「とにかく遅くならないうちに帰るから待ってろよ。あ…寝ててもかまわねーんだけどよ」
「いいえ、お兄様。待ってますわ」
「お、おう! じゃあ行ってくる」
顔だけ振り返りながら手を上げた兄に、セレスも素直に手を上げる。それを軽く振りながら駆け足で出て行く兄を笑顔で見送った。
「いってらっしゃい、お兄様」
ほんの少し胸に刺さる寂しさが痛かったが、表情には見せずに押し隠す。

あんなに軽薄だった兄が、おそらく後にも先にもたった一人に真剣なのだから……。

軽薄兄貴のアキレス腱




 普段より別人度が高いうえに、なんだかゼロセレっぽくてごめんなさい。いえ、ベースはゼロしいなんですけど。
 セレスってブラコンなんでしょうね。ゼロスもシスコンらしいし。うらやましい兄妹です。
 それにしてもまあ難産だった上に書き直しが多くて読みづらい……。怖くて読み返すこともできやしない。