最期のあの一瞬ばかりが印象づいていたが、改めて考えてみると、母の記憶というのは意外に多くゼロスの中に遺されていた。
普段は頑なに神子としか呼ばないくせに時折思いついたようにゼロスと呼んでみたり、泣きついたときは決まって痛いほど髪をすいたり、自分が笑うとつられて笑ってくれることもあったり。
こうして遺された記憶をつなぎ合わせてみると、以前より確かなミレーヌ・ワイルダーという人物が浮かび上がってくるように思われる。
もしかして彼女はそうとうに不器用な女だったのではないだろうか。
子を産んだというゆるぎない一つの事象に対して図らずも二つの側面を見出してしまって、それゆえ狂っていった哀れなひと。
彼女にとって神子を産むことは義務だった。幸せを壊した神託と義務と世界の全てを憎むことに徹することができれば、おそらく彼女は自分を保つことができたはずだ。ゼロスから無駄な期待を奪い、余計に傷つけることもなかったかもしれない。
……しかし彼女もまたまぎれもない女だった。自身の腹から生まれ出でた子を無条件に愛してしまう母性を有していた。
だから結局彼女は義務と母性の間で揺れた。ひたすら揺れて悩み続けていた。きっとそう、最期のあの時まで。
わが子をかばいながら呪詛を吐くなどという奇行はそうでもしないと理由付けられなかった。
何にしても彼女はすでにこの世界にはいない。確かめることなどできないから、推測は仮定の域を出ない。
それでも残酷な母の不定性に傷つけられ、たくさんのものを失ったゼロスには、そうした言い訳が必要だったのだ。


「ゼロス、交代だよ」
ふと背後から響いたアルトの呼びかけにゼロスは振り返った。ずっと同じ姿勢をとっていたせいか首が痛い。ぎこちなく身体を傾けながら、ゼロスは思い出したように目の前の焚き火をひっくり返した。消えかかっていた火の子は新鮮な空気を取り込んで再び大きく燃え盛る。その赤に記憶を閉じ込めるように睨み付けると、毛布をかぶったままのしいながゼロスの隣にちょこんと並んだ。
「何か異常は?」
「ねーな」
「そ。じゃ、あんたは休みな」
あくびをかみ殺しながらしいなはゼロスから火かき棒を奪い取り、背後のテントを示した。空になってしまった両手を見つめながら、ゼロスは困ったように笑う。
「眠れねーから順番代わるわ」
最近は特に身体が冷えてちっとも睡魔が訪れないのだ。野宿の場合、風雨のしのげるテントの中より、火に当たっているほうがよほど楽。火の揺れるのを見つめながら、思考をとばすことが野宿の習慣になっていた。
ところが彼女にはゼロスの繊細な感傷は通用しないらしい。
「はぁ、何言ってんだい。眠くないわけないだろ!? そんなに赤い目ぇして」
彼女らしい乱暴さで言って、焚き火に前のめりになっていた身体をピンと伸ばすと、睨むような視線でゼロスを見つめた。そのまま無遠慮に手が伸びてくるものだから、ゼロスは驚いて身を引いてしまう。
しいなの眉間に皺が寄った。ゼロスの虚勢に気付き始めた最近の彼女は、時々何をしでかすかわからない。予測不能の反応というのがゼロスは怖かった。そんな未知な反応よりは怒りを相手にするほうがマシ。
一瞬の躊躇でそう判断すると、ゼロスはすぐさまごまかすためにふざけた声音を表情にのせた。
「まあ、そのあれだ。しいなちゃんの膝枕があれば幸せーに眠れるかもしれないなぁ…なんて」
怒声より先に手が出た場合に備えて体の中心に力を入れる。暴力は痛いから好きではないのだが、彼女のそれは頻繁すぎて少しくらいの衝撃くらいなら慣れてしまっているのだ。それも情けない話だが。
ところが覚悟した怒りはいつまで待っても振り下ろされることはなかった。
「あれ、しいなさん?」
思わず拍子抜けしてしいなを見ると、彼女は怒るでも呆れるでもない、真剣な表情でこちらを見返していた。予想外の反応に困惑するゼロスに向かって、彼女ははっきりと告げる。
「本当にしてほしいんだったら、ふざけないで真面目に頼みな」
「……へ? マジでしてくれんの?」
「あんたの態度次第だね」
いったいどういう風の吹き回しだろう。ゼロスはあっけにとられてぽかんと口を開けたまま彼女を見つめた。顔の左側に焚き火の光を浴びるしいなの瞳は思いがけず真摯で、再び冗談で交わしてしまうにはあまりに後ろめたい。ゼロスは引くに引けなくなってしまった。
「あー、……じゃあ……」
改めてお願いするとなると、なんと恥ずかしい要求だろうか。
まさか照れるゼロスの様子を楽しんだ後「嘘だよー」なんて茶化されるのではないかと内心ビクビクしていたが、態度に表れやすいしいなの表情はいつまでも堅さを失わなかった。……冗談に逃げたがっているゼロスを逃すものかというように、焚き火の明かりを受けた瞳が挑戦的にきらめいている。
「その、えーと……膝枕、してください」
迫力に押され半ば強制的なぎこちないセリフを言い切ると、しいなはやっとらしくない強固な表情をふっとゆるめた。それが満足だったのか、はにかむような笑みを無防備に浮かべる。
まるでままごとだ。思いながらも貴重な笑みが拝めたことに気を良くして、つられてゼロスも笑う。……もう少し付き合ってやるか。
そのまま地面に突っ張っていた左腕を引っ張られたので、逆らわずにゆっくり体を倒した。後頭部にこてんと軽い衝撃。
「!!」
あまりのやわらかさにゼロスは息を飲んだ。安心できるあたたかさがじんわりと髪を伝って浸み込んでくる。なんというかこれは…すごく心地いい。残念ながら貴重なアングルの視界はすぐにしいなの手のひらによって遮られてしまったけれども。
にわかにはその状況が信じられずに、ゼロスは彼女を怒らせない程度に茶化しながら片手をあげた。
「はーい、質問。これ、あとでおいくら請求されます?」
「金なんてもらわないよ!」
「じゃあ……なんで?」
「だって、あんたが眠れないなんて言うから……。リフィルの膝枕でジーニアスはすぐ寝ちゃうだろ?」
声が焦っているのは照れているからだろうか。セイジ姉弟と彼ら二人では立場や関係が根本的に違うだろうと突っ込みそうになるのをどうにか飲み込んで、ゼロスはくすくすと笑った。彼女がどこまで理解してこの行為をしてくれているのかは知らないが、これは非常においしい。何しろしいな自ら進んで罠にかかったのだ。公然と陥れるチャンスである。
さて、どういじくってやろうか考えていると、ふとしいなが低い声で「それに」と付け足した。
「あんたの態度がいちいち腹立つんだよ。何を言うにも逃げ道ばっか作って、いつもあきらめたように笑ってる。そんなの、あたしは悲しいよ」
「…………しいな」
「……もっとわがままを言うべきだよ。そればっかじゃダメだけどさ、これくらいのことだったらあたしもしてあげられるから。……まあ、あんたは余計なお節介だって言うかもしれないけどね」
奇妙なほど冷え渡っていた体が急激に火照った。しいなの手によって視界が遮られていることがありがたく思える。とてもじゃないが、彼女の顔を見上げることはできなかった。
本当にどこまで見透かされているのだろう。鈍感なようでいて、その実誰よりも絶妙なタイミングで欲しい言葉をくれる。
出会ったときからそうだった。ずっとずっと望んでいた安らぎを、彼女なら与えてくれるような気がしていた。
それなのに経験から染み付いた臆病はそれを真っ直ぐに望むことを恐れている。だから彼女の言うとおり。ゼロスの言葉にはいつも逃げ道が用意されているのだ。
逃げ腰の願望がそうそう叶えられるはずもない。のらりくらりと生きてきたゼロスはいつしか叶わないことに慣れてしまっていた。欲しいのに、欲しくない振りをしていた。
けれど彼女はそんなゼロスに腕を広げてくれるのだ。欲しくてたまらなかったぬくもりを、臆病なゼロスのために用意してくれるというのだ。
欲も下心もない。子どもみたいな愛情で、ゼロスを包みこむ。
それがゼロスにとってどれほど重大なことか、きっと彼女は自覚していないのだろう。だからのほほんと、腕を広げていられる。
ああ、これはかなり……。
「やばいな……」
幸せな苦笑とともに呟いて、ゼロスは両腕を添えられた手の甲に重ねた。寝起きの暖かさが誘うようにゼロスを導いてふわっと意識が遠ざかる。
「眠れそうかい?」
「……少しだけ……」
うつろに答えると彼女は微笑んだようだった。
叶えられて肥大していく貪欲な願望。
それを受け止める責任はもちろん彼女にとってもらおう。逃げてばかりの臆病者だったが、今度ばかりは逃がさない。逃がしてなるものか。
「おやすみ、ゼロス」
危機感の薄い女の声が囁いて、ゼロスを眠りに引き込んだ。髪をすく指の動きに誘われて深く深く沈んでいく。そしていつしか母の記憶も小難しい思考もはるか彼方に薄れていった。


マザーフッドに眠る




 ミレーヌさんについて本気出して考えてみたゼロスくん。たぶん救いの塔裏切り後。
 公式がどうなのかよく知らないのですが、漫画版ではゼロスの父君は、幼いころに亡くなってしまったようですね。
 もし旦那さんが生きていたら、ミレーヌさんは最期にあんなセリフを言ったかな?とか考えます。
 なんにしても、うちのしいなはゼロスに都合のいいようにできている……!!