ふと静寂を破ったせっかちなノックに、訪問者を悟る。返事も待たずに開けたのは、執事にまだ自分が寝ていることを聞いたからかもしれない。わずかに動いた空気に彼女の気配を確かめて、ゼロスはもぞもぞとベッドの中を泳いだ。
「まったく、まだ寝てんのかい?」
呆れた声音が近づいて、枕元で嘆息をもらす。もう少しまどろんでいたかったけれど、彼女が来たということはそろそろ起きなければならない時間なのだろう。薄目を開けて窺った部屋の中は、カーテンの隙間から漏れる鋭い日差しにほの明るく浮かび上がっていた。
「何時ぃ?」
「もうとっくに昼はすぎたよ! ほら、起きな!」
「うーん……しいながおはようのちゅーしてくれたら起きるー」
寝ぼけ眼でしいなに向かって両手を差し伸べると、「バッ……」とおそらく罵倒しかけた言葉を飲み込んで、上掛けを剥ぎ取られた。すうっと風が体を撫でて、ゼロスは悲鳴をあげる。
「きゃー、しいなちゃんのエッチー」
「どっちが! このぐうたら!!」
さあ、来るぞ。身構えた瞬間、額に降る衝撃。あまりにも予想通りすぎて笑うしかない。
ゼロスは額を押さえて上半身を起こした。
「くぅー、朝からすごいのくらっちゃった……」
「あんたがふざけるからだよ」
つんと顔を背けてカーテンを引き放つしいなの後ろ姿を、ゼロスは曖昧な笑顔を浮かべて見つめた。
彼女は本当に笑えるくらいお約束な女なのだ。
「ったく、ロイドが来るって言ったのはあんただろ? さっきメルトキオについて今陛下に謁見してるんだってさ。さっさと準備しないと間に合わないよ?」
「えー…もう来たのかよ」
「えー、じゃない!」
つくづくしいなは朝から元気だ。
逆光を受けてますます威圧感を増したしいなに目を細めたあと、ゼロスはのろい動作でベッドから下りた。姿見に映った自分の姿は確かにちょっとひどすぎて、肩をすくめる。
目覚まし代わりにシャワーを浴びたほうがいいだろう。来客はロイドなのだ。しいなもいるし、少しくらい待たせても問題はないはず。
大きなあくびで浴室に向かいかけたゼロスは、ドアの前でふと思い立ったように立ち止まった。すでに定位置となっている執務室のソファに腰掛けるしいなを、肩越しに振り返る。
「一緒に入る?」
かまいたくなるのはもう性分なのだ。くだらないと思いつつ、やめられない。
「は、入るわけないだろ! スケベ!!」
飛んできたクッションをひらりと避けながらゼロスはけらけらと笑った。
ほら、予想通り。

ふざければ怒鳴られる。よこしまな手を伸ばせば容赦なくつねられるし、愛を囁けば真っ向から拒絶される。
素直じゃない彼女の態度は、ある意味ではとても素直なのかもしれない。
もちろんこちらが本気になれば、彼女もそれなりに真剣に答えようとしてくれることは知っている。そうでなければ、二人の関係はいつまでも向き合うことがないままだったはずだから。こうして互いの存在を特別だと認め合っていることだけが、二人の関係をつなぐ唯一の証だった。
しかし、本当にそれだけでいいのだろうか。
確かにつかず離れずの距離は心地いいけれど、恋愛関係としてはどうしても物足りない。特に経験豊富なゼロスにとって、それは確実に不満として蓄積されている。
だからといって、しいなに強要するようなことはしたくなかった。
正直なしいなのワンパターン。予想通りという点で彼女は実に誠実であるが、そろそろ気付いてほしいと思う。
繰り返される同じやりとりに、淡い期待を裏切られ続けていること。
特別からもう一歩踏み込みたいゼロスの願いは、次第にあきらめへと形を変えていく……。

シャワーから上がると、ソファのしいなは居眠りをしているようだった。深い寝息が断続的にたゆたう。
ロイドもまだ屋敷には到着していないようだ。彼のことだから、城内や町に寄り道しているのかもしれない。
穏やかな寝顔を見下ろして、ゼロスは薄いため息をついた。それは無垢な彼女を微笑ましく想う気持ちと満たされない期待への嘆きが複雑に交じり合った、ひどく中途半端な色をしている。
出会ってから数年。想いを確かめ合ってから数ヶ月。
彼らは少し時間を浪費しすぎたのかもしれない。今さら次のステップへ踏み出すには、もう遅すぎるのかもしれない。
濡れたタオルを首にかけて、ゼロスは寄り添うように彼女の隣に腰掛けた。
だとしたら彼らはこうして肩を並べるべきではないのだろう。互いの未来のために互いを開放しなければ……。
重みでソファが沈んだことに反応して、しいながゆるく瞳を開けた。間近に迫る濡れ髪のゼロスに驚いたらしく、頬を紅潮させてソファの肘掛まで飛びのく。無意識の反射なのだろうが、それもゼロスを傷つける態度だった。
「び……ビックリしたぁ」
「何だよ。ここ、俺さまの部屋」
「いや、わかってるんだけど、そんな近くに……いや、なんでもない。あー、それよりロイド遅いね」
言いかけてごまかしたしいなが、話題を変えるのにロイドの名を引っ張り出す。それもまた無意識なのだろうが、あまりにもしいならしすぎてゼロスは切なくなった。
このやるせなさをなんと表現したらいいだろう。今さら遊びだ、恋愛ゲームだと割り切るには、いささか本気になりすぎた。
もうここにとどまることはできないのだ。
ゼロスは「ああ、そうだな」と生返事を返して、いよいよ最後の勝負に出ることに決めた。あまりにも勝率の高い悲しい賭け。過去負けなしのゼロスには、しいなの反応が正確に予想できた。それはゼロスにとって決して嬉しい未来ではなかったけれど……。
「な、しいな」
「なんだい?」
ちょいちょいと人差し指で招いて、肘掛に抱きついたままだったしいなを隣に並ばせる。近づくことに警戒しなくなったのは、積み重ねた日々の証なのか。
ゼロスは苦い笑みを浮かべて、しいなの瞳を見つめた。
「俺さまのこと、愛してるって言って?」
「なっ!」
案の定、彼女は真っ赤な顔で驚いて、酸欠の金魚のように口をパクパクと開閉させた。おそらく、次に来るのは耳に痛い怒声。
「い、言えるわけないじゃないか!!」
わかっていても痛い。鋭い言葉など慣れきっているはずの自分の心も、さすがに彼女からの攻撃となると人並みに傷つくのだ。
「だよなー……」
ふざけた声音のつもりだったのに、口から飛び出した声は思いがけず寂しい響きをまとっていて、ゼロスはさらに表情に苦味を加えた。
期待は諦めから絶望に降格して消える。
「さーってと、そろっそろロイドくんも来るかもな」
それ以上しいなの瞳と向き合う勇気はなくて、ゼロスは空笑いを装うとソファから立ち上がった。するとどこか困ったような顔で、しいなが服の裾を掴む。彼女は赤い顔のまま、何かを訴えるように見上げていた。
服の裾を引かれたのは、座れという要求なのか。
「なに」
「あいしてるなんて……言えないよ。……それがどういう気持ちなのか全然知らないから」
膝の上で手をそろえてしおらしく俯いたしいなは、たどたどしく言葉を紡ぐ。わざわざ言い訳のように付け足したのは、意外にあっさり退いたゼロスに違和感を感じたからなのか。
とにかく嘘は言えない、ということらしい。なるほど、正直なしいなにしてみればもっともだ。
「わかってんよ」
恋愛経験の薄いしいなにそんなことを尋ねた自分が意地悪だった。もう十分だ。
ゼロスはあやすようにしいなの頭を軽く叩いた。ところが、その手のひらの下でにわかに首を振ったしいなは、さらに思いを伝えようとするかのようにゼロスの瞳を真っ直ぐ見つめる。
「でもさ、あたし……好きだよ。うまく言えないんだけどさ、あんたのこと……大事だと思ってる」
「………………」
「それじゃ……ダメかい?」
お約束のしいなから予想外のことが起きた。素直じゃないしいなの口から、期待をあおる言葉が飛び出たのだ。
信じられず呆然とするゼロスを見上げて、しいなは不愉快そうに眉を歪める。
「何だい、その顔は」
「……しいなの誤作動に対処法を探してる顔」
「ごさ、誤作動って何さ!!」
再び見慣れた怒り顔で拳を振り上げるしいなに、ゼロスは単純に笑った。純粋に喜びから笑顔がこぼれて、ゼロスは感情を抑えきれずに両腕を伸ばしてしいなを抱きしめる。
予想を裏切られることが、こんなに嬉しいなんてことはかつてない。
あきらめていた期待が蘇っていくのを感じて、ゼロスは歓喜にわいた。
「俺さまも好きだぜ、しいなー」 愛してるなんてお決まりの愛のせりふなんかより、「好き」という簡素な言葉のほうがよほど彼女らしい。本当にゼロスが期待したのはそんな定型的な言葉じゃないから。
恋愛としてゼロスを意識したしいなの言葉、もしくは態度。
ずっとそれを望んでいたのだ。あきらめて絶望しかけた瞬間、からかうようにくれてしまうのだから、もしかしたらしいなはゼロスを上回る天性の恋愛マスターかもしれない。
「あんたのそれは真実味がないねぇ」
ぼやきながら背中に回される細い腕に、軽々しく抱きついたら拒まれるかもしれないというゼロスの予想はまたしても裏切られる。求めた分だけ返る反応に気を良くしたゼロスは願望のまま彼女へどんどん体重をかけていった。
「な、何するつもりだい?」
「んー……キス」
もう数ヶ月もおあずけを食わされているのだ。今をきっかけにしなければ、またどれほど待たされるかわからない。……まあでも彼女の場合は多少強引に迫ったほうがいいのだと、たった今ゼロスは理解したところであるが。
今度こそ蹴り飛ばされるかと思われたしいなの顔色は、怒りか照れなのか、最高潮に達していた。
「な、してい?」
「そんなこと、聞くんじゃないっ!!」
罵声のわりに抵抗はなかった。これが素直じゃない彼女の精一杯の愛情表現。
「だよな。聞くまでもないよな」
ニヤリと悪どい笑みを浮かべたゼロスはいよいよしいなをソファに押し倒す。裏切られ続けていた淡い期待。だけどそれは彼女の見え透いた意地っ張りに惑わされていただけで、本当は最初から応えてくれていたのかもしれない。
だとしたら、自分もまだまだだなと自嘲して、しいなの震える唇に顔を寄せたときだった。
来客を告げる鐘の音が屋敷内に響いて、思わず二人はピタリと硬直する。
その相手が誰かなんて、それこそ聞くまでもなかった。遅れてやってきたかつての仲間。
「ロロロロイドが来たみたいだね」
予想外の事態に緩んだ拘束から、するりと抜け出してしいなが笑う。空になった腕を見つめて、情けなく四足をついたままゼロスは低く唸るしかなかった。
「あんのヤロー……」
登りつめた期待は、意外なところから裏切られたのだった。


期待と諦観の狭間で




 手を出しそびれているゼロスさん。遊び人にあるまじき不手際!!
 それも愛ゆえの意気地なしですよね。
 惜しいところでロイドが出損ねた……。