鍋の火を止めてふたをおろす。もわっと上がる湯気に目を細めながら、おたまを差し入れてスープをよそった。みそでといたスープはミズホでは定番だ。 すでに炊き立てのご飯は膳に並んでいるし、メインの肉じゃがも盛り付けを待っている段階。梅干は嫌いと言っていたから代わりに白菜の浅漬けを出して、あとは……。 しばしあごに拳をあてて考える。もう一品、くわえるなら何を出そうか。 「そういえば……」 料理をすることはわりと好きなほうで、一人でも食事はしっかり作る。 いつからだったか、時々遊びに来るゼロス――本人は隠密稼業集落の視察だとか、親交を深めるためだとかもったいぶった理由をつけているが、とてもそうは見えないので遊んでいるのだとしいなは思っている――がこうして昼時を見計らったように訪れるのは、たぶんこれを期待しているのだろう。 一人で食べるよりかあんなおしゃべりでもいないよりはマシで、だから当然のように食卓について運ばれてくる料理を待つ男に呆れこそすれ怒りは抱かなかった。 「ほー、今日は煮物かー。うまそーだねぇ」 「肉じゃがだよ。こういうのはまとめていっぱい作るほうがうまく煮えるんだ。どうせ一人じゃ食べきれないし、好きなだけ食べな」 「そかそか。じゃあ遠慮なく」 使い慣れない箸をなんとか右手に収めて、さっそく手を出そうとする紅い髪をパシンと軽くはたく。沈んだ頭が不機嫌に睨み上げてくるのは予想済みで、腕を組んだしいなは威圧的に見下ろしながら「食前のあいさつ!」と一言放った。 しいなのうちでしいなの料理を食べるなら、しいなのルールに従ってもらわねば食わせない。 初めてこの家で手料理をごちそうをしたときの約束を思い出したようで、ゼロスは真面目な顔でパッと背筋をのばした。しいながしつけたとおり、箸を両手で真横に構えて一礼。 「いただきます」 「はい、召し上がれ」 あぶなっかしい所作でいもをつまみあげたゼロスは、それを口に運ぶとへらっと頬を緩ませた。たいていいつも緩んでいるその筋肉は、どうやら「おいしい」を表現したかったらしい。続けて二三いもと肉をちゃわんにキープした後、彼の視線は食卓の左端、朱色の器の黒い中身に向けられた。 「これ、何?」 「佃煮」 「うまいの?」 「食べてみなよ」 いぶかしげに首をかしげながら、ゼロスが躊躇した。たぶんその見た目のせいだろう。 厳密には黒というより少し茶味がかっていて、柔らかいカプセル状の物体が寄せ集まっているのである。今まで彼の前には出したことのないものだ。 何をするにも飄々としているゼロスが、そんなに警戒している顔を見るのも珍しいので、しいなはひそかに笑ってしまった。 「な……なんか……」 「なんだい?」 「いや、なんでもねぇ」 言いかけた感想を飲み込んで、ゼロスは佃煮の一つをつまんだ。自分の下に引き寄せてからも、じろじろと観察している。別に強制しているわけではない。けれど、彼の挙動を作り手であるしいながじっとみつめているものだから、半分そんな気分なのだろう。 ちらりと視線だけでしいなを見たゼロスは、やがて意を決したようにそれをひょいと口に放り込んだ。奇妙な面持ちでそれをそしゃくしている。 「…………………」 「どうなんだい? 味のほうは」 「うん……うまいんじゃ、ないかな。酒に合いそうだぜ。あ、ほれ大吟醸とかいいんでねーの?」 「本っ当においしいのかい?」 しいながゼロスの顔を覗き込む。きょとんとしたゼロスが頷くとしいなは淡白に「へー、そうなんだ」と呟いた。まるで他人事のような顔つきである。 妙な反応にゼロスはふと真面目な顔になった。 「これ、しいなが作ったんじゃねえの?」 「いや、違うよ。三軒向こうのおばさんからのお裾分けさ」 「ふ、ふーん……」 ゼロスはあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。止まっていた箸を茶碗の上のいもに戻して、それを口に運ぶ。 ならば、得体の知れないものを無理に食べる必要もなかったわけだ。頑張ってしまった自分が悔しく、それを初めに言ってくれなかったしいなにも少し腹が立つ。とはいえ、ごちそうされる身でそうわがままばかり言っては、いつ取り上げられるかわからないので、何も言わなかった。 うまいことはうまかったのだ。ただ、見た目と食感がどうしても嫌悪感を催す。 あれはいったいなんなのだろう。何の佃煮なのか。食感がまだ舌に残っていて、その正体ばかりが気になって、食事中のにぎやかな会話もうわの空だった。 味噌汁を飲み終えたとき、食卓にはすっかり空になった肉じゃがの皿と、少しあまっている白菜の浅漬け、そしてほとんど手のつけられていない佃煮が残った。そういえばしいなは一度も手を伸ばしていない。 ますます、佃煮の正体が気になった。 片づけを始めるために立ち上がったしいなの背中に、ついにゼロスは問いかけた。 「あの佃煮って元はなんなわけ?」 皿を持ったままくるり、と顔だけ振り返らせたしいなが笑った。彼女らしくない意地悪な表情。 「蜂の子だよ」 「は、蜂!?」 ぞわっと背筋を嫌悪感が走り抜ける。硬直したゼロスの反応にさらにくすくすと笑ったしいなが、悪女に見えた。 「そ。蜂のこども。おいしいって話なんだけどねー、あたしはちょっと偏見があって食べたことないのさ」 「食べたことがない?」 「ああ、悪いね。毒見みたいなことさせて。でもおいしかったんだろ? おばさんにそう伝えとくよ。……にしても、あの時のゼロスの顔ったら!」 呆然とするゼロスの前でからからと笑うしいな。かみつぶした蜂の子が腹の中で暴れまわっているような錯覚を起こして、ゼロスはふっと気が遠くなる。 はめられたのだ、彼は。悪気があったわけではないだろうけれど、いたずら心くらいはあったのかもしれない。 思い出し笑いがつぼに入ったのか、ひたすら笑い続けるしいなを据わった目で見上げて、ゼロスは低く呟いた。 「覚えてろよ、しいな」 青灰の瞳に黒い光が宿った。 |
未知の食卓 |
しいなはいい奥さんになれると思う。エプロンつけて台所に立つ後ろ姿なんてかわいすぎるな、うん。
なのでうちのゼロスくんは基本的に何出されてもとりあえず食べてみます。明らかに昆虫だとわかっても一口は食べます。
実は私も蜂の子を食べたことありません。「うまい」らしいけど、抵抗がある…。