真っ白でやわらかくて冷たい雪は、人をひきつける魅力がある。
うかつに手を伸ばせばあっけなく消えてしまうのに、その美しさや清さは誘うようにあざ笑うように舞って揺れるのだ。
どんなに惑わされそうになっても、決して触れてはいけない。
焦がれて求めるには、ゼロスの手は汚れすぎていた。


雪にトラウマがあるなんてことは口に出さない。どこまで知っているのか、牽制の切り札としてそれを持ち出したことのあるリーガルを除けば、テセアラ貴族の醜聞に疎いメンバーのこと、この雪国でもゼロスを特に気遣うようなことはなかった。
もう十何年と前の話なのだ。あの時の記憶は今でも薄れはしないけれど、嘘と仮面を武器に生きてきた時間までも無駄にはしない。
なんでもないふりを装ってあてがわれた部屋に逃げ込めば、どっと襲う疲れと空しさに、ゼロスはぐったりとベッドに横たわった。
雪は空からふんわりと舞うように落ちてくるのに、どうして音がするのだろう。雪国特有の二重窓の向こうで、擬音語にも表現できないかすかな音で、じわじわとゼロスを追い詰める。

――きれいね
一面を白銀に染めた庭を見て、あの人は珍しく表情を和らげて言った。あの人の瞳は雪にとてもよく似ていた。
清くてやわらかくて凍えるほど冷たくて、触れればあっというまに壊れてしまう。
あの日、そんなはかないものに不用意に手を伸ばしたゼロスは、それをあっさりと壊してしまったのだ。
「あんたなんか生まなければよかった」

「!!」
控えめに響いたノックの音に、ゼロスはびくりと飛び起きた。構えるように枕を抱き、警戒しながら扉をにらみつけると、聞きなれた女の声が届く。
「ゼロス、起きてるかい?」
「……あー、しいな?」
ほとんどいつもの条件反射で軽い声を出したゼロスは、弱っている自身を追い詰めるようにわざわざ自ら扉を開け出迎えた。彼女のほうからゼロスを訪れるなんて珍しい。コレットやリフィルも一緒かと思ったが、彼女は身軽に一人で部屋に足を踏み入れた。
「なになに、どうしたのしいな。まさか夜這……」
「それ以上言うなら殴るよ!」
「すでに手が出てる時点でその警告は無意味です、しいなさん……」
顎から来たアッパーに、危うく舌をかみそうになりながら訴えると、しいなは呆れた表情でゼロスを見上げた。
「ちょっと様子を見に来ただけさ。長居はしないよ」
「様子ってなんの?」
「あんたに決まってんじゃないか。……気になったから」
「……………………」
まさか気付かれたとでもいうのだろうか。
確かしいなはゼロスの過去を知らないはずである。以前それとなく探ってみたが、「はあ、あんた何言ってんだい?」と怪訝な顔をされたから間違いない。
それなのに心の底を見透かされた気がして、ぞっとした。
そんな心中を察したのかしいなは一瞬眉を歪めると、確かな足取りでゼロスに一歩近づいた。
「!」
身構えてしまった彼の脇を裏切るように素通りして、白の映る窓へ寄る。
「カーテン開けっ放しで寒くないのかい?」
しいならしい無意識の鈍感ぶりに苦笑をこらえきれなかったゼロスは、背を向けたしいなに気付かれないようにため息をついて肩の力を抜いた。
まったくこの女も油断ならない。
暗殺しに行ったはずの人間に情がわいて助けてしまったり、里のためなら命をかけることもいとわなかったり、とにかく詰めが甘くて、いつだって等しく優しい。
そんな清らかさで無防備に近づいてくるものだから、ゼロスはいつも、ともすれば伸ばしてしまいそうになる腕を必死に抑えなければならなかった。
この手のものに、触れてはいけないのだ。ゼロスの汚れた手では、壊すことしかできない。
そこに安らぎを求めてはいけない。
そう自分に言い聞かせて、ゼロスはなんでもない振りで軽薄な声を演じた。

「いやー、雪がきれいだなーと思ってよ」
「まあ確かにきれいだけどさ。雪って冷たいじゃないか」
「それが雪ってもんでしょーよ。触ったらあっというまに溶けちゃうのよ。取り扱い注意ってね」
ピシャリと鋭くカーテンを引いたしいなは、乾いた声で笑うゼロスを振り返った。そこには険しい顔が浮かんでいる。特に怒らせるようなことを言ったつもりもないゼロスは、怪訝に首をかしげた。
「しいな?」
「あんた、やっぱりおかしいね」
「はあ?」
言うや否や、再びゼロスへ向かってきたしいなは、今度は素通りせずにゼロスの正面に立ち止まる。どこか怒ったような顔で見上げる彼女の瞳には、明らかに心配という思いが宿っていた。
ああ、そんな目で見ないでくれればいいのに。ゼロスは自身を制するようにきつく拳を握った。穢れた手が清らかな彼女を汚さないように、必死に耐えて。
「具合、悪いんじゃないかい?」
「なに心配してくれんの?」
「当然だろ。……あんただって大事な仲間なんだ。イチオウね」
照れ隠しのように余計な一言を付け足したしいなの瞳の奥に、後ろ暗い感情が見え隠れする。罪悪感というのかもしれない。
揺れる濃茶の瞳を見つめて、ゼロスははっと気がついた。
そうだった。自分は彼女を美化しすぎていた。未熟な自らの行いで故郷の人間の命を奪ってしまった過去のある彼女の心は、清らかに毅然とある反面、実はとてもゼロスに近い闇を隠している。
だからだろうか。人の心に触れるのを恐れているくせに、彼女にだけは衝動を止められない。馴れ合いと言われてもいい。彼女の光と闇が無性に恋しくてたまらなくなった。
どうしようもない切なさに、きつく握った拳が開かれる。今、自分はどんな顔をしているのだろう。見上げるしいなの表情が、痛々しいものでも見るようにわずかにゆがんだ。
「ゼロス……本当に大丈夫かい?」
しいなの手のひらがゼロスの額に当てられる。唐突とも思えたその動きは決して乱暴なものではなく、ゆっくりと優しい仕草。バンダナ越しに触れた彼女の手のひらはうっとりするほど暖かかった。
闇を孕んだ清らかな手を、こんなにも優しく誘うようにこちらに差し伸べてくれるから。
もう、こらえることなどできない。
「ん、風邪引いたかも。超さみー」
染み付いた汚い手段で彼女を引き寄せる。おとなしいゼロスに油断していたのか、簡単によろめいた彼女を腕の中に閉じ込めた。
彼女はきっと壊れない。焦がれて求めて、とうとう触れてしまったからには、もう放せない。
「こら! だったら、遊んでないでさっさとベッドで休みな!」
「先にしいなであったまってからー」
そして彼は、決して冷たくはない彼女の心に手垢をつける。


この手を伸ばして




 初めてフラノールに到着した時ということで。
 イレギュラーなベタベタを狙うつもりでした。途中からおかしな方向へ曲がりました。
 しいなは例えるなら一色だと思いますが、その色は白ではないと思います。ゼロスはー、三色以上混ぜちゃった悪魔色かな。