いつ見てもその部屋は、いかにも執務室、という感じだった。窓際の観葉植物がお堅い雰囲気を和らげようと奮闘しているが、まるで少しずつ迫ってきているのではないかと思うほど圧迫感のある壁際のキャビネットが、そのけなげな努力を底からひっくり返している。
確かにこの部屋では仕事以外の何もできないだろう、と辟易して眺め回した後、しいなの視点はこの部屋の主役である執務机の、椅子ではなく脇にひっそりと立つかつての小さな仲間に向かった。
「こんにちは、しいなさん。ご無沙汰しています」
「やあ、久しぶりだねプレセア。また少し背が伸びたんじゃないのかい?」
桃色の髪がかすかに揺れる。最近上手に笑う方法を身につけたらしい彼女は、年相応…とまではさすがにいかないが、それでも以前より確実に大人びて見えた。彼女はしいなを執務机前の応接ソファにすすめると、慣れた手つきで紅茶を入れ始めた。

「リーガルさんなんですが、残念ながら今日はここにはいません。シルヴァラント開発事業と会合があると言って、今朝出かけられました。戻るのは明日の夕方以降になるそうです」
「ああ、別にいいんだ。書類を届けるついでに、顔を出しただけだし。やっぱり会長っていう仕事は大変なんだねぇ。こうして関わるようになるまで、どんなことをしてるのか実はよく知らなかったんだけど」
「はい、私も実はよくわかりません」
至って真面目な顔で冗談をいうプレセアにしいなはくすくすと笑った。きょとんと首を傾げているところを見るともしかしたら本気だったのかもしれないが、信じがたいので見なかったことにして紅茶のカップを受け取る。なんという銘柄か知らないが、非常に高貴な香りがした。
「プレセアだけでも会えてよかったよ」
「はい、私も会いたかったです」
リーガルから学んだのか、向かいのソファに腰掛ける仕草やカップを口に運ぶ優雅な手つきは、外見よりもさらに濃く、時間の経過を実感させた。

再生の旅のあと、再びレザレノの会長の任に就いたリーガルは、身寄りのなかったプレセアを補佐としてアルタミラに招いた。エクスフィア疾患の名残なのか、冷静に物事を分析する能力と、それを臆すことなく的確に指摘できる大胆さが功を奏して、優秀な秘書として活躍しているらしい。そんな話をゼロスから聞いた。
「ゼロスくんといえば、一昨日……」
世間話というのにも慣れてきたらしいプレセアとしばし談笑していると、出てきた名前にふと何かを思い出したようだった。彼女はカップをテーブルに置いて立ち上がると、背後のキャビネットから茶封筒を引き抜く。付箋のつけられたそれを抱えて、プレセアは困ったようにしいなに視線を戻した。
「どうかしたかい?」
「……それが先日訪れたゼロスくんが渡した資料を忘れていってしまって。誰かに届けさせようと思っていたのですが、今まで私も忘れていました」
自分の失態に腹立ちを覚えたのか、プレセアの額に小さな皺が寄る。見た目だけはどうしても子どもだから、そんなものがひどく似合わなかった。
「なら、あたしが届けてあげるよ」
だから、プレセアの幼い顔から皺を取り去りたくて、安易にそう申し出たのだ。

「え、そんな悪いです」
「なんのなんの。ちょうどこれからメルトキオに寄るつもりだったし、ついでだから気にしなくていいよ」
両手を差し出すと、一瞬躊躇したあとそれをしいなの手に託した。申し訳なさそうに眉を下げて、頭も下げる。あんまりかしこまった態度をとられると逆に自分が恐縮してしまうので、しいなはわざとおおげさに手を振った。
「それじゃあ、お言葉に甘えてよろしくお願いします」
「はいよ、任せときな」
それからまた少し世間話をして、持ってきた書類もきちんとプレセアに預けた後、しいなはアルタミラを発った。昼過ぎだったのでメルトキオ方面の連絡船はこんでいた。



ノックをしても返事がなかったから、おそらくそうなのではないかと思っていた。しかし実際こうして安らかに眠る穏やかな顔を見ると、当然の怒りが湧き起こる。いつもだったらその感情に任せて彼の腹に一発きついのをくれてやるところだが、疲労もあってかその激しさは長続きせずに、あきらめに変わってすうと消えた。
「ったく、結局夕方になっちまったじゃないか」
いつのまにか口の中に入り込んでしまった砂の感触が気持ち悪い。
脱力したようにベッドサイドの椅子に腰掛けたしいなは、サイドテーブルに肘をついて小さくうめいた。
砂のこびりついた黄色い窓から差し込む熱をはらんだ夕日が、さらにしいなの疲労をあおった。
あんな安請け合いをしなければよかったかもしれないという、身勝手な後悔が浮かんでは消える。まさか目的の人物が自宅のあるメルトキオにいないなどとはまったく想像していなかったから、申し訳なさそうに頭を下げる執事が出迎えたときは、思わず非難の声を上げてしまったのだ。リーガル同様多忙な身の彼は、また別の案件で出張中らしい。執事に預けてもよかったのだが、預かり物をさらに預けるというのも忍びなく、こうして彼を追ってはるばるトリエットまで来てしまったのだから、自分はそうとうに義理堅いのだろう。
この時間ではもう今日のうちにミズホまで帰れるはずはないし、とりあえず明日の仕事に差し支えないとはいえ、慣れ親しんだ布団で寝られないのが無性に残念に思えた。運よく空いていたこの宿の一室が取れたからこそ浮かぶないものねだりだが。

そばでバタバタと砂を払い落とすしいなの気配に気付かないまま、ベッドの中の人物は安穏と眠り続けている。届け物は一応ベッドサイドに置いたが、説明も必要だろうかと起床を待ってみるが、いっこうに起きる様子もない。人の気配には聡い男だから、よっぽど疲れているのだろうか。
「……………………」
よぎったのはほんの一さじのいたずら心。
よくしゃべりよく動くあいつの顔をじっくり観察してやろうと企んだしいなは、ベッドに片足をかけて身を乗り出した。
安宿のごわごわとした毛布を腹にだけかけた彼の額には、暑いのかうっすら汗がにじんでいる。それ以外はほとんどよく出来た人形といった雰囲気で、かすかに漏れる呼気さえも作り物のように見えた。
引きこもっているわけではないのに、日に焼けない肌。女性と変わらない白さで、しかも肌理も細かい。そういえば旅のさなかでもひげをそっているところを見たことがないなと気付いたのは、生えないわけではないらしいことがわかったから。それでも滑らかなのは努力のたまものか。
油断するとすぐに反乱を起こす自分の頬に触れてみて、しいなは悔しくなった。
「男にしておくのはもったいない」
いつだったか、酔ったリフィルがそんなことを主張していたのを思い出す。あの時は納得しかねたが今ならわかるような気がした。
まつげだってこんなに長い。鼻は少し男性的にすっと通っているが、決して敬遠させるような形でもない。
確かに自分で言うだけあって美しい顔立ちなのだ。しいななど努力しても追いつかないほどに。
そこがまた悔しいところではあるのだけれど、整ったそれに惹かれてしまう本能も仕方ないではないか。

気付けば視線は閉じられた唇に寄せられていた。呼吸は変わらない。深く眠っているらしい。それを確認して、しいなはさらに身を乗り出した。
自分が何をしようとしているのか、わかっていながら近づく顔を引き戻すことが出来ない。
目を閉じたのは、近づきすぎた彼の顔をこれ以上見ることが後ろめたく思えたからだ。彼の同意無しにこんなことをするなんて、いけないとわかっているし。そもそも女のほうからこんなことをするなんてはしたない気がするし……。
だから当然閉じられた視野は、そろりと動く腕の動きを知らなかった。
(だけどやっぱりこういうのは……っ!)
触れてしまう寸前、なんとか自制心で留まったしいなだったが。
「!?」
上げようとした頭の後ろに何かが添えられ、しいなはビクリと固まる。驚いて目を開けると、寝ぼけているのか半眼で見つめ返す男の青い瞳が見えた。
「ゼ……ロスっ!」
「あらら、なによ。やめちゃうの?」
「っ!!」
曲げていた腕を突っ張って、しいなはがばっと顔を上げた。自然添えられていた手のひらも離れ、空いたその手をひらひらと振ったゼロスはベッドに埋もれたままニヤニヤ笑いを浮かべている。

「う、あ、な……なんで!?」
「あれー、それって俺さまのセリフじゃない? しいなこそなんで?」
おそらく彼の「なんで」にはいくつかの意味があったのだろう。けれどパニックになったしいなの頭は、そのどれにも答えることができず、ただ身を戻せという命令だけが身体に伝えられた。
とりあえず彼の上からどこうとみじろぐと、さっと動いたゼロスの手に阻まれた。
「は、放しとくれ!」
「質問に答えてから」
楽しそうにゼロスの唇は半月を描いている。さきほど見惚れてしまった美しさは、その俗っぽい笑みに神聖さを欠いていた。けれどそのほうが彼らしい。
「そ、そんな義務はないね! 早く放しな!」
「えー、じゃあさっきの続きしてくれたら放してあげる」
「す、するわけないだろっ!!」
手首を捕らえられたまま、しいなは憎らしい男の頬をつねった。「いひゃいいひゃい」と言いながらも、開放する気配はない。
本当にうかつだった。まさかあのタイミングで起きてしまうとは。いや、もしかしたらその前から起きていたのかもしれない。こいつならやりかねない。
とにかくこの腕から逃れて、なかったことにしてしまうのだ。それが一番いい。

と、抵抗するしいなを見上げて、ゼロスはふと真面目な顔になった。まるで願うように表情に切なさをまじえる。
「なあ、しいな。答えろよ。今何しようとしたんだ?」
「な、なんでもな……」
ぐいと腕を引き寄せられて、さきほどのように顔が近づく。さらに頬が赤くなった。
「しいなが言わないなら、俺がしてもいい?」
「は……?」
瞬間、世界が反転した。いつのまにか重力が背後にあって、視界の背景がベッドから天井へと変わっている。シーツの上に広がっていたゼロスの髪が、垂れ布のようにこちらへ下がってきていた。
「な、な……?」
野生を感じさせる笑みで、ゼロスが君臨している。出すべき言葉が見つからず、目を丸くして口を開閉しているだけのしいなを見下ろして、彼は一言「かわいい」とだけ言った。
いつもの軽薄な声ではなく、まるで彼の心の声をそのまま音声として出したようにすんなりと。
途端に火照った顔を隠すべく、気付けば開放されていた腕を上げていた。殴らなければ、と思って上げるはず腕が相手ではなく自分の顔を覆っている。実は恥ずかしくてそれどころではなかったのが本音だった。
「ね、しいな。していい?」
「だ、ダメに決まってるだろ!」
甘い声で尋ねてくる彼に思いっきり首を振る。もちろん腕で隠したままだから、あまり激しくはなかったが。
ゼロスはその様まで楽しんでいるのか、鼻息で笑うと顔を耳に近づけたらしい。吐息がかかるほどの距離で促すように名を呼ばれる。
「しいな」
「っ!」
鼓動がおかしい。不規則に跳ね上がって、内側から胸を叩く。
彼の要求には従えるはずがない。自分が何をしようとしていたのかなんて、自分が一番よく知っているんだから。
「だめ……」
呟くと、ゼロスは焦れたように息を吐いた。顔を覆う腕に軽く手が添えられて。

「しいな、これ、邪魔」

いとも簡単に防御は外されてしまった。薄目から見える視界には、満足げに笑って近づいてくるやつの端正な顔。スルと忍び寄った手のひらが熱いほほを挟み込んだ。
「!」

なぜ、こんなことになっているのだろう。
その疑問ばかり頭を巡った。それはゼロスの寝顔をのぞいたからで、だってせっかく届け物をしに来てあげたのに眠りこけてるのはずるいと思って、そもそもこいつがメルトキオにいなかったのが悪くて、プレセアから預かったりしなければ今頃ミズホでのんびりお風呂にでも入ってられたのに。
っていうか、なによりまず、こいつが忘れ物なんかしたからこうなってるんじゃないか!
責任転嫁といえなくもない論理の末、答えを導き出したのは、触れ合うほんの一センチ手前。グッと握った拳がゼロスのわき腹に命中して、一人用のベッドから落ちる寸前まで転がっていく。
「グッ……それはひどいんじゃねーの、しいな……」
うめくゼロスから毛布を盾のように構えて逃げたしいなは、赤い顔を隠しながら舌を突き出した。
「なぁにがひどいだい! このセクハラ野郎!」
「ぶふぁっはっは、セクハラって」
罵声がツボに入ったのか、殴った箇所が痛むのか、わき腹を押さえながらこちらを見上げるゼロス。うっすら疲れも見える顔は、なにやらとても幸せそうだ。

彼は本気だったのだろうか。聞いたことのないような深い声まで出して。
まさかこんなふざけた男に、一瞬でも従わせられたことをなかったことにはできなくて、耳に残る「邪魔」の一言にもう一度頬を染めたしいなであった。


狸に化かされた狐


  

 前半部分は省いたほうがよかったんですけれども。どうしてもプレセアが書きたくて入れてしまいました。
 まあ相変わらずです、この二人は。でもたぶんこの話だとコイビト設定ではなさそうですね。
 ゼロスのヒゲって紅いのかなぁ……(そこか)