「ん? 今の話に何か不備があったかい?」 突然、張りのある声が鼓膜に届き、ゼロスはついていた頬杖から顔を上げた。 見慣れた自室。最近なんだか定位置と化してしまっている応接セットのソファの向かいに、夕方の斜陽にまぶしそうに目を細めながら黒髪の女が座っている。 ああそうだ。別になんのことはない。いつものごとく、今日も今日とてお目通しを待つ書類の山に埋もれているのだ。 改めて我に返り、ゼロスはやっと理解した。 会話の途中でぼんやりしてしまったのは自分のほうで、彼女にとっては突然でもなんでもないのだろう。呆けた表情で見返す彼に、彼女のほうが驚いているようだった。だが、珍しいその表情も一瞬で怒りに塗り替えられる。 「ゼロス! アンタまた人の話を聞いてなかったね!?」 「わわわ、先端はやめて!刺さる刺さる!俺さまの美肌に穴があく!」 振り上げられた羽ペンに制止を求めて叫ぶと、張り出したてのひらに突き刺す直前なんとか思いとどまってくれた。代わりに飛んできた拳は甘んじて受けることにして、ゼロスは深くソファに沈みこんだ。 「ちょっとボーっとしてただけでしょー? ココんとこ睡眠削ってオシゴトしてるんだから多めに見てくれってば」 「ホントかねぇ? どこぞのお嬢さんとの夜遊びはオシゴトのうちに入んないんだからね」 「んなコトしてる暇なんてねーのはしいなもご承知でしょーよ。俺さま信用ない……」 「信用してもらいたいなら生活を改めな」 「なんだかなぁ……」 あまりにもサラッとした態度にゼロスは苦笑してため息をついた。一応仮にもコイビトという関係のはずなのに、どうしたって彼女には嫉妬とかやきもちといった粘着質のそぶりが見えない。 この関係を始めた時も、しいなのような性格なら「他の女との関係を清算してからでなければ触れるのも禁止!」などと言い出すかと思ったのに、今のところそんなことは言われた覚えもないし、抱きしめたりキスをしたりという恋人同士のスキンシップにおいて照れや羞恥から生じる軽い拒否はあっても、嫌悪感を感じさせる仕草こそ一度もされたことがない。 ゼロスにとっては都合がいいので藪をつつくようなことはしなかったが、やはりらしくないその態度は気になるのだ。わりと何でも見透かせる彼女の心の中で、一番重要なその部分だけがかすみがかったように不透明で、挙句の果てに歪んだ蜃気楼さえ見えてくる。 まさかとは思うけど……本気じゃない……? 「仕方ないね。もう一度言うよ。エクスフィアの要の紋の技術をこの先どう管理するかって話さ」 「あー、はいはい。それで?」 黙り込んだのは話を思い出そうとしているのだと考えたのだろう。ため息をつきつつも、しいなは再度説明を始めた。二度手間をさせてしまっているという自覚はあったから、今度はちゃんと話の内容に意識を向けたが、浮かんでしまった最低の仮定が頭にちらつく。 「エクスフィア自体は今ロイドたちが世界中を回って回収しているだろ。そうなればこの先それを制御する技術なんて必要なくなるし、きっと残しておいても悪用するやつが出てくるだろうし、廃棄してしまおうかって話が出てるんだ。それで要人たちにも意見を聞こうと思って……」 しいなはゼロスと付き合っていることをどう思っているのだろう。何のために抱かれて、何を思って今ここにいる? もし他に本命がいたなら、そしてそれが叶えられないから彼のそばにいるのだとしたら……たとえばあの清らかな少年とか。そりゃあどうでもいいはずだ、ゼロスがどの女と火遊びをしようと。実は彼の今の相手は彼女一人だなんてこと、自覚してもいなければ気にもとめていないだろう。 ぽこん、と浮き上がった泥沼の気泡は、弾けた瞬間、次々とあとを生む。絶え間なくわき上がっては弾け、疑惑という名の泥沼を嫉妬で満たす。 もし他人が見たら、今の己の瞳はさぞかし凶悪な光を宿していただろう。 「ゼロス?」 再びしいなが彼の名を呼んだとき、すでに身体は動いていた。 向かい合う彼らを阻むローテーブルを回りこんで、彼女の隣に腰が触れるほどの距離に身体を下ろす。一瞬ビクとすくんだ彼女を逃さぬよう背中から腰に手を回して、空いた片手は遠いほうの肩に触れた。 簡単な拘束。このまま押し倒すことも容易だ。 「な、な、なにしてんだい。ゼロス! 今日は仕事で来てるんだよっ」 「だって、ソレ、そんなに急ぎじゃないでしょ。俺さま寂しいんだよね」 熱のこもった瞳で見下ろせば、茶色の瞳が少し慌てたようにうろうろ虚空をさまよう。けれど抵抗はないし、嫌悪もない。突然迫られて対応に困っている。それだけ。 腰の拘束は放さないまま、彼女の手の中の書類を引き抜くと、乱雑にそれを放った。「あっ」と追いかけようとした右手首を掴んで、いよいよ押し倒す。 「こんな真昼間からバカ言ってるんじゃないよ。遊んでる暇があるなら少しは仕事とか睡眠とかとりなって言うんだ。ほら、放しな!」 「やだ。だって俺さま最近全然しいなに触ってない」 「今現に触ってるじゃないか!」 単純な言葉の裏に潜む意図を読み取ったのか、かろうじて自由な左手を振り回してくる彼女の顔は少し赤い。しいならしい初心な反応にわずかにほっとして、けれど拘束は緩めないまま、そらした首筋に顔を寄せる。かかった吐息にピクンと震えた。 ……抵抗、してくれればいいのに。 言葉だけでなく、さきほどのようなきつい一発。できることなら彼女の誤解から生じる嫉妬という感情も混ぜてくれれば彼は止まれる。 だって寂しいのはしいなの気持ちが見えないからだ。ゼロスの方はこんなにも粘っこくて一途な感情に振り回されているというのに、恋愛というものに一番理想を抱いていそうなしいなのような女が、その感情を持ってくれないなんて悔しすぎる。本気になってくれないなんて、空しすぎる。 おとなしい身体をぎゅっと抱きこむ。こんなに近くにいるのに、寂しいんだ。 この渇きを癒すのは。 「しいなじゃなきゃ、だめなんだ」 しいなの耳元で囁いたのは、優しい気遣いの言葉でも、甘ったるい愛の言葉でもなく、ひどく情けなくて頼りない嘆きだった。満たされない想いを昇華できずに押し付けるなんて、それこそゼロスが今まであざ笑ってきた女たちがしてきたのと同じこと。 みっともなくて、けれど引き返すことはできずに、ゼロスは愛しいコイビトを腕に抱いたまま途方に暮れた。 すると、おとなしかったしいながおもむろに身じろいだ。 「あたしに……執着してくれるの?」 呟かれた言葉に匂う願望にゼロスは目をみはった。信じがたい心持で、しいなの顔を確認するため上半身を起こす。顔をそらしたままのしいなに、まだ感情の色は見えなかった。 「どういう意味?」 「……アンタらしくないって意味さ」 「俺らしいって何だよ」 「アンタみたいな男なら、いくらでも代えが利くんだろ? だから……どんなものにも執着しないって、そんな話はメルトキオじゃ常識さ」 色のなかったしいなの顔に、すねるているような感情が浮き出した。すねると同時にあきらめてもいるような。 それをみとめた瞬間、カッと顔に血が上るのを自覚する。身体に回していた腕を両方ともしいなの両頬にビタンとはりつけた。 「なめんじゃねーよ? 悪いけど俺さまは過去の人生で、欲しいものなんて何一つ手に入れられなかったんだ」 母の愛も、家族も、ぬくもりも。金で買える簡単で安価なものなら手に入りこそすれ、本当に欲しかった大切なものは、全てこの指の隙間から落ちていった。その代わりに自分を慰めるため、笑顔と軽薄な愛をばらまいて、似たようなものを買っていただけ。 「そんでようやく手に入ったはずの本物には、勝手な誤解でよそよそしい態度をとられちゃうなんて、ホント俺さまって悲劇の美青年って感じ? かわいそー」 つり気味の目の中で、まん丸の瞳がこちらを見返していた。両手をはりつけた頬がほんの少し赤みを帯びている。こりゃーあとでしかられるかもなーと、わりと冷静に考えながら、困惑気味に歪められる表情の変化を見守った。 「それは……その、どういう意味……?」 「しいなに執着してるって意味じゃないの?」 「そんなまさか……!」 しいなはほとんど絶望的な声を出した。「どうして」とか「信じられない」とか言いながら、ゼロスの下で首を振る。はりつけたままの掌まで一緒に振り回された。 その様子に呆れた笑いを返しながら、ぐっと力をこめて振動を止める。ピタリと合った茶色の瞳が、まだ疑わしげに見上げていた。 「たったひとり、しいなだけ。だって俺さまのスウィートハニーなわけだから」 「し、んじらんないね! どこの女にも言ってんだろ?」 「あのなー! そうやって頭ごなしに否定するから信じられないんだろ? ホントに俺さましいな一筋だって。お得意のミズホ情報網で探ってみ? みんな手を切ったんだから」 「!」 さすがにここまでくれば、しいなの見えなかった本心がなんとなく推察できた。それくらいには自分は鋭いつもりだった。だからこそ、そんな偽りに振り回された自分が、信じてもらえなかった自分が腹立たしい。それ以上に、負けん気で幼稚なしいなの思考がうらめしい。 一瞬前までの情けない自分は見なかったことにして、いつものように不敵な笑顔を浮かべてみせる。 「んで? 俺さまに対抗して執着しない振りをしちゃった勘違いさんは、いつになったら見せてくれんの?」 しいなの顔がみるみる赤く染まった。これは外的刺激ではない。心が刺激されて反映された結果だ。 やっと、ゼロスが知るしいなが見えた気がして、胸が満たされた。これこそ、ゼロスが欲しかった女の本当だ。頬から手を放して、彼女の顔の脇に肘をつく。 「見せてくれよ。しいなの……」 |
粘着質感情 |
『左胸下』から派生した話。なので無駄にエクスフィア話が出張ってます。
しいなってけっこう卑屈だったよね? 勝手に、ホント勝手にこういう誤解とかしちゃってそう。
……気付けばジェラシーなゼロスばっかりだ。