裏切りにはその人なりの理由があるのだと、気付くことが出来たのはつい最近のことだ。
それまでのあたしは、裏切るほうに非はあって裏切られた自分はかわいそうな善意の被害者だと、何の疑いもなくそう思い込んでいたのだ。
だからこそ、安易に「裏切り者が嫌い、許せない」と公言できたのだし、それを否定する人間はよっぽど性根がねじくれているか、あるいは愚かな人間なのだと、これまた根拠もなく信じられた。
あの時のあたしみたいなことを、自己中心的というのだろう。つまり自己中というものには自覚がないのだ。平気で人を傷つけられるのはそれが原因。
ある意味それは裏切りよりも非道な行為かもしれない。


生まれたばかりの朝日がカーテンの隙間から忍び込んだ。顔に当たる白い光に表情を歪めて、まずは身体よりも精神を覚醒させる。
そうだ。今日は親子決戦の重要な日。そしてきっと最後になるだろう、召喚士として最大の仕事が控えた緊張の日だ。
昨夜の記憶と繋ぎ合わせてそんな状況を導き出すと、あたしはパッと目を開けた。シミの浮かんだ天井が見える。朝もやが窓の隙間から侵入して、部屋の空気を濁らせていた。
時折響く間延びした妙な鳴き声はトレントの森から聞こえてくるのだろうか。
朝とは言ってもまだ活動を始めるには早すぎる時間帯ではある。もう一眠りしてしまおうかと寝返りを打ってみたが、一度耳についた謎の鳥の鳴き声があっさり眠気をさらっていってしまったようだ。仕方なく起き上がって、素足のまま窓の外を覗くと、そういう生態なのか、村中ほとんどのエルフたちはすでに起きててきぱきと動き出していた。この分なら食堂に下りてもコーヒーくらい頼めるだろうと予測したあたしは、いつもの服装に着替えると忍び足で部屋を出た。

仲間たちはまだ眠っているのだろう。廊下に面するどの扉もしんと静まり返っていた。特に昨夜遅くに散歩へ出向いたらしいロイドとコレットは間違いなく夢の中だ。並んで歩いていく二人の姿を窓から覗いてしまったのが、少しだけ後ろめたく思われた。きっと彼らはそのことを隠したりなどしないから、やましいのは自分だけなのだろうが。
などと、そんなことをつらつら考えていたから、食堂に入る前になんの気構えもしなかった。半開きだった戸の隙間から紅い髪の先客がいることなどしっかり見えていたのにだ。
戸口……つまりあたしの方に向いてマグカップをあおっていた男と目が合ってしまったときには、すでに遅かった。
「っ!」
「あ……」
「…………………」
「…………………」
妙な沈黙が生まれる。時々不思議な色を放つ蒼灰の瞳を正面から見たのは久しぶりのような気がした。実際は二日と経っていないはずなのに、開いてしまった心の距離がそう感じさせるのかもしれなかった。
しばし戸口に立ち尽くして、何を言おうか必死に頭をめぐらしていると、先に言葉を見つけたらしいゼロスが薄く笑った。
「おはよーさん」
「あ……うん。おはよう」
朝の挨拶。至極当然のこと。そんな言葉すら浮かばないとは、よほどあたしはゼロスを意識しているのだろう。たぶん、過剰なほどに。
いつまでもこんなところに立っていても仕方がないので食堂に踏み込んだあたしだったが、座る席を決めるのにまた立ち止まってしまった。以前なら迷わず彼の真正面を選んだだろう。けれど今はそこに座るのをためらわれた。かといって離れて座るのもおかしいし、けれど顔を見られるのも怖かったから、結局ゼロスの後ろの席に座った。まるで背中を合わせるように椅子の背だけを触れ合わせて。
あたしの行方を目で追ったゼロスは席を選んだとき、苦笑したようだった。何も言ってはこないのが、またもどかしかった。

救いの塔でゼロスが今までの裏切りを明かして以来、あたしはゼロスとまともに話をしていない。仲間たちは彼の苦悩と自分たちの力なさを理解して、今までどおりとはいかないけれど、また違う意味での信頼を築き始めたのに、あたしだけ一人近づくことも離れることも出来ずに微妙な立ち位置でそれを他人事のように見つめていた。
だって、そんなに簡単に割り切れるわけがない。どんな事情があるにせよ、彼があたしたちを裏切って足を引っ張っていた事実は消えないわけで、「今度こそ本当の仲間になります」だなんて言われても信用できるはずがないじゃないか。
……と、憤っていたのは最初の数分。
なぜなら再び仲間たちと笑い合う彼の後ろ姿を見た瞬間、すごくほっとしてしまったのだ。また彼がそばにいてくれることが、とてつもなく嬉しかったのだ。
あたしたちをあざ笑って見せた冷たい背中ではなく、くだらないことに笑ってふざけて時々こちらを振り返ってくれる、その背中のほうが好きだと気付いてしまったのだ。
それからだ。これまでの旅の道中に見せた彼の表情、言動一つ一つに理由を推測し始めたのは。
あの時の笑み、あの時の怒り、あの時の皮肉。考えてみればゼロスはたくさんの思いを表現していたじゃないか。それに気付けなかったのは、だからやっぱりあたしが自己中だったせいかもしれなくて。
もう一度、ゼロスと話してみたい。昨日からそう思ってはいたのだ。
以前のように戻れなくてもいい。その代わりにあたしもゼロスと新しい信頼関係が欲しい、と。
「……………………」
それなのに、いざとなると向かい合う勇気がなくて、たぶん自分から作ってしまったぎこちない溝を埋めることもできなかった。

不意にギシとこすれる音がした。背中からわずかに伝わってくる体温が離れていくのを感じて、あたしは振り返る。立ち上がったゼロスがこちらを振り向かないまま、テーブルから離れていくのが見えた。
もしかして行ってしまうのだろうか。
ツキンと痛んだ胸に生じる寂しさと願望。引き止める言葉が言いたい。
ところが、予想に反してゼロスは戸口へは向かわなかった。朝の澄んだ空気の滑り込む窓のほうへ歩いていって、枠に逆手をつき外を眺める。
窓の背景にはトレントの森が見えた。あの妙に間延びした鳥の鳴き声もその方向から聞こえる。
こちらに背をむけたゼロスの表情は窺えないが、ウェーブした長い髪が少し上に引っ張られて、もしかしたら俯いているのかもしれないと察した。

背中。あの日までそれを意識したことはなかったように思う。けれど、嘘ばかり表情に貼り付けるゼロスの場合、背中のほうがよっぽど正直だったりするのではないだろうか。
あたしは立ち上がった。低く鳴る靴音に、ゼロスがピクリと少しだけ動いたようだが、それよりも早くその背に近づく。
そっと正直な背中に、自分の背中を預けた。
「!」
ゼロスが息を呑んだのが、みじろぎで伝わった。少しずつこちらに流れてくる体温が暖かくて心地よい。
ふっとひそかに鼻で笑ったらしいゼロスが、声を発するために息を吸うのさえ背中越しにはっきりとわかった。
「どーしたよ、しいな」
声の振動までも感じる。あたしは少し恥ずかしくなって、俯いたまま返事をした。
「うん……。少しだけあたしの話きいてくれないかい?」
「……どーぞ?」
「あのさ……」
言う前に一呼吸。これを言っても大丈夫なのか、自分なりに一度判断する。鳥の鳴き声が途切れたのを見計らって、音声として吐き出した。
「あたし、あんたのこと何もわかろうとしてなかった。裏切り者が全面的に悪いんだって、浅はかに決め付けてた」
「……それが普通なんじゃねーの」
笑うゼロスの声は低い。あんまり乗り気じゃなさそうだ。だけど中途半端にあきらめることは出来なくて、あたしは激しく首を振った。
「そうかもしれないけど、そうじゃいけないと思ったんだよ。あたしは裏切られたくないし、でもそれを止めるすべは知らない。くちなわはもうあたしとは二度と会ってくれないかもしれない。でもさ」
背中に預ける体重を少しだけ増やしてみる。何も言わないまま、彼はそれを支えてくれた。
勇気付けられて、もう一度息を吸う。言葉で伝えるのは得意ではないけれど、せめて気持ちだけは伝わるように。
「あんたは戻ってきてくれた。もう一度、チャンスをくれた。だから今度こそあんたのことを知りたいんだ」
もう耳に慣れてしまった鳥の鳴き声が再び始まる。間抜けなBGMはこれから最後の一言を告げるあたしの決心をあざ笑うようだった。悔しいから、負けないように少しだけ声を大きくして、けれどぶっきらぼうにならないように気をつけながら。
「ねえ、ゼロス。あんた今何を考えてるんだい?」
何も言ってくれなくてもいい。その代わりあたしは正直な背中からあんたの本心を探り当てて見せるから。

するとゼロスはまるであたしの考えを読み取ったように、あたしの背中を押し返して伸びをした。体勢を崩されて少しだけよろめきながら振り返ると、真剣な顔をしたゼロスが窓の外を指差している。意味がわからず首を傾げると、気だるげな声で一言言った。
「あの鳥の鳴き声。なんて言ってるのかなーと考えてる」
「…………………は?」
「しいなちゃーんしいなちゃーんって聞こえるんだけど、どうよ?」
「ぶっ……」
予想外の返答がおかしくて、あたしは不覚にもつい吹き出してしまった。
さきほどから気になるあの妙な鳴き声。やはりゼロスもかなり気にしていたらしい。もしかしたら窓辺に来たのも、その姿を探すためだったのかもしれない。彼が再び窓の外へ視線を向けた隙に、あたしは悟られないようにひそかにため息をこぼした。
はぐらかされたことには気付いている。けれど今はそれをとがめるより、懐かしいやりとりを交わすほうが重要だと思えた。きっとたぶんゼロスもそれを望んでる。

だから、さっきはあんなに気を使った口調を元に戻して、軽口に乗ることにした。
「あたしにはアホゼロースアホゼロースって聞こえるねぇ」
「んなっ! 鳥の分際で俺さまをアホ呼ばわりとは生意気な!」
「もしこの森にしか生息しない鳥だったら、あんたよりよっぽど価値があるかもしれないよ?」
「おいおいおい。俺さま世界で唯一……いやたった二人の神子なんだぜ? そんな希少価値を鳥と比べんなよ、しいなー」
気付けばゼロスも笑っていた。久しくこんなやりとりを交わしていなかったことに改めて気付く。真面目に真正面からぶつかるより、こうしてふざけているほうがはるかにあたしたちらしい。
ポジションとか役割とかいうものなのかもしれない。ひねくれたこいつに正攻法で突っ込んでいくのがロイドの役割だとしたら、あたしは同じことをするんじゃなくて、いつもみたいにふざけながら着かず離れずこの距離でそばにいること。
ならばあたしはその役目を、今度こそ投げ出さずにまっとうしよう。もう、裏切られるのはイヤだから。

笑いがおさまるとゼロスは首だけ後ろに振り返った。右手を後ろに回して自身の背中をちょいちょいと示す。
「なあ、しいな。さっきのもう一回やって」
「…………? 変なことするんじゃないだろうね?」
「しないしない。さっきだって、なんもしなかっただろ?」
「……なんだかあやしいねぇ。まあいいよ」
ゼロスがなぜ再びそんなことを望んだのかよくわからなかったけれど、あたしは素直に従った。背中を向けて後ろに体重をかける。
とん、と軽い衝撃のあとに、じんわりと体温を感じた。
「なあ、しいな」
「なんだい?」
「……ありがと、な」
「!」
背中から心臓の鼓動がかすかに伝わる。少しだけ早い音。
珍しい。ゼロスが照れているのだ。つられてあたしも赤くなる頬を自覚しながら、小さく「うん」とだけ告げた。

もう鳥の鳴き声は聞こえなかった。代わりに上階から物音がする。そろそろ仲間たちの起きる時間かもしれない。
ほんの少しの逡巡の後、あたしはゼロスから背を離した。振り返ったゼロスが恥ずかしさを隠すためか、ふざけながらいかがわしいところに手を伸ばすのをいつもの調子で払い落とす。
「いきなりつれないんじゃないの、しいなぁ」
「いきなり馴れ馴れしいんじゃないのかい、ゼロス」
苦笑いのゼロス。腕を組んだあたし。
こうして笑い合えること。裏切りの先に形成された新しいあたしたちの関係。
もしゼロスの心が見えなくて不安になったら、あたしはまた背中を預けよう。
素直じゃないあたしたちには、背中合わせのこの距離が一番自然で一番近いんだ。


仲直りのBGM


 

 なんか似たようなシチュエーションを前にも書いたなぁ、と思いつつ、再び「早朝の二人―しいな視点」。
 救いの塔後にふっつーに仲間に戻ったゼロスがかなり違和感だったんですよ。少なくともしいなは割り切れないんじゃないかと。
 自分的補足をしたつもりが、だんだん脱線してぐだぐだになっちゃいましたけど、楽しそうだしまあいいか。