なんでこんなことになっているのだろう。 「こわ……」 「あ、こら。目つぶるなって。大丈夫、痛くしないから」 顎をがっちりホールドして迫ってくる端正な顔に、もはや抵抗すらあきらめたしいなはため息をつきたい気分だった。だが案の定それは肩や腕やらで器用に押さえ込んでくる男の意図に阻まれる。 少しだけ開いた隙間から見えた、藍色の繊細な造形をした小瓶が、すました顔でこちらを見つめているのがひどくうらめしかった。 きっかけはなんのことはない。ただちょっと気になって、気分転換の目的も含めてそれを話題にしただけだった。 「ん、なんだい? この小瓶」 男のくせに一丁前に鏡台なんてものが自室にしつらえてあるゼロスの部屋で、しいなはふと香水の群れに紛れ込んだイレギュラーに気付いた。藍色の多角的な表面が天井の明かりを反射して淡く輝いている。香水の瓶によく似た形をしていたが、噴射ポンプがついていないので、それとは違うのだろう。 部屋の主からの返事は、妙な時間差で返って来た。 「……ん、ああ、それな。けしょーすい」 寝ぼけたような声なのは、実際彼が今にも眠りの国へ旅立つ寸前だったからかもしれない。 山のように積まれた書類の上からかろうじて見える紅いてっぺんが、面倒くさそうにがしがしとかき乱された。普段自分の見繕いにはそうとう気を使っているようだから、そんな粗雑な仕草が現れるということは、集中力などとっくにそがれているのだろう。 一度休憩させたほうがいいのかもしれない。まあこのぶんでは一方的に約束させられた「ディナー」にも行けそうにないし。 そう思ったしいなは書類の束を置いて、ソファから立ち上がった。鏡台に近づきながら彼を見やると、ゼロスの方も書類を手放して執務机に伏せながらしいなの動きを目で追っていた。 「化粧水? そんなもの使うのかい、ゼロス」 「そりゃ使いますよ。っても、それは俺さまのじゃないけどな。昨日エステ行ったらさ、お姉さんがくれたわけよ。今王都じゃ女の子に大人気の化粧水らしいぜ」 「な、あんたエステまで通ってるのかい!?」 「おうよ。いっくら俺さまが類まれな美貌を持って生まれたと言ったって、美しさってのはぁ努力しなきゃ保たれないもんなのよ」 「あー……そうかい」 本日二度目の「男のくせに」という言葉が浮かんだ。自身を磨くのは悪いことではないけれど、限度というものがある。美容にお金をかけたことなどないしいなには、それがどの程度のものなのかわからないが、まあとにかく一般的な男性より遥かにレベルが高いのだろう。 呆れていいのか、感心するべきなのか。とにかく脱力したまま、しいなはそれをつまみあげた。手のひらにすっぽり収まるそれの感触は冷たいが、深い海の色に強く惹かれる。 吸い込まれるように、その色を見つめていた。 「そんなに気に入ったんならやるよ、それ」 「え! いいよ、別にそんなつもりじゃ……」 ふと耳元で響いた声に、しいなははっと顔を上げた。正面の鏡にはいつの間に移動したのか、すぐ背後に少し眠そうな顔の男が立っている。相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべながら、しいなの手の中の小瓶をひょいと取り上げた。 「肌に直接つけるもんだから、試してからにしような」 「だからいいってば! 欲しいわけじゃないんだから」 「とりあえず座って座って」 こういう時のゼロスの動きというのは、無駄もなければ隙もない。完全に背後をとられてしまったしいなは、抵抗らしい抵抗も出来ずに、つかまれた肩に制されておとなしく鏡台前の背のない椅子に座った。その間にゼロスは使用人を呼びつけて何事か命じている。一瞬きょとんとして鏡の中からしいなを見た侍女の顔が、楽しそうに笑った。 「では、セレス様の道具をお借りしてきますね。メイク係も呼びましょうか?」 「あー、それはいいや。道具だけ持ってきて」 「かしこまりました」 拘束されたまま背後で交わされたやりとりに、しいなは憮然として鏡の中のゼロスを睨む。逆らってまで立ち上がるつもりはないが、面白くないので肩の手を振り払った。今侍女が浮かべた笑みの意味は何なのか。 「何する気だい!?」 「ディナーに行く準備だろ」 「はぁ? だってあんなに仕事残ってて行けるわけないじゃないか。あたしはてっきりあきらめたんだと思ってたよ」 「まさかー。わざわざ朝一でミズホまで迎えに行ったのに、なんで仕事に邪魔されなきゃなんねーのよ」 ちょうどノックされた扉へ返事を返しながら、ゼロスは投げやりに主張した。常々私生活を脅かす書類の山に悪態をついている男である。この現状にもかなりご立腹の様子らしい。 だからといって、そのたびにこっちが振り回されるんじゃ、たまったものではないのだけれど。 「まあまあ、とりあえず俺さまに任せなさいって。久しぶりのデートなんだぜぇ? めかしこんでこーじゃないの」 「デート……ねぇ。まあ付き合うけどさ、めかしこむ時間があるなら仕事を……って……」 侍女が持ってきたメイク道具を鼻歌まじりで鏡台に並べる様子に、しいなは首をかしげながら振り返って彼を見上げた。めかしこむと言ったってさすがのゼロスでも化粧までするとは思えない。じゃあ、これは誰のため? 「あ、あたしはしないからね! っていうか、化粧水からなんでここまで飛躍するんだい!」 「いいじゃん、たまには。しいなは元がいいんだから、磨けば磨くほど光るわけよ」 「ちょ、ちょっと待ちなって」 「はいはい、ちょっと黙ってねーお嬢さん」 藍色の小瓶をコットンに含ませながら、ゼロスが強引にしいなを自分のほうへ向かせた。鏡台なのに、鏡から背を向ける体勢である。視界に映るもの全てがわがままな男そのものに占められてしまい、しいなは困惑した。 なんで化粧の仕方や、それぞれの仕草が手馴れているのだろうか。 ――三度目の「男のくせに」。しかし今回は呆れや感心というより、妬みに近い感情でうかんだ言葉だった。 俯いてしまった顔を顎に手を添えて軽く持ち上げられる。 頬に当てられたコットンのひやりとした冷たさにいちいちビクビクしながら、ゼロス先生によるメイクアップは着々と遂行された。 「よっし、こんなもんでしょ」 やがて腰を伸ばしたゼロスが満足げに呟いて、しいなの顔から手を離した。ぼんやりと見上げるしいなに笑いかけて、一人うんうんと頷いている。 「しいなちゃん、かーわいー」 「ば、バカ言ってんじゃないよ……」 鏡を背にしているせいで結果がどうなったのか、まだわからない。見てみたい…けれど見るのも怖い。恋人によって作り上げられた自分の顔が、今どんな表情を描いているのかを想像することさえ恥ずかしく思えた。振り返ることに許可を求めたのも、そうした困惑が理由なのかもしれない。 「か、鏡見ていいかい?」 「どうぞ」 椅子の上でぎこちなく体を反転させて、そろそろと上げた視界に映ったのは、一見いつものしいなだった。ミズホの装束、頭の後ろで束ねられた四方八方に向いてしまう髪の毛。 だけど、違う。目も眉も頬も唇も。 「……あたし…こんな顔してたっけ」 丸くした目でこちらを見返す女は、鮮やかに艶めいて美しかった。自分ではただ「きつい」とだけ思っていたつり気味の瞳も、こんな風に彩れば妖艶な印象に変わるなどと、予想できただろうか。 これが全て、ゼロスの手によって飾られたのだ。 「まるで別人だよ」 「そんなことないぜ? しいながきれいだってことは、俺さま前から知ってたし」 しいなの隣に膝をついて同じく鏡を覗き込んだゼロスが微笑む。信用性にかけることばかり言うゼロスの言葉をこのときばかりは素直に信じられたのは、我ながら思いがけない変身だったからかもしれない。 頬に熱くなった。 単純に褒められることにも、それを素直に受け止めることにも慣れていないから、自信がない。けれどそれが嬉しくないわけがなくて。 恥ずかしいから真っ直ぐ顔を見るのはためらわれた。俯いたまま、視線だけを持ち上げて彼を見つめる。 「きれいってほんと?」 瞬間、笑みを浮かべていたゼロスの顔から表情が落ちた。めったに見られない驚き顔をにわかに貼り付けて、ガックリと毒を抜かれたように脱力する。 「それ……反則……」 「ゼロス?」 こぼれた呟きが聞き取れなくて首をかしげると、再び顔を上げたゼロスに肩をつかまれた。真面目な顔で宣言する。少しだけ焦っているようにも見えた。 「悪い、しいな。ディナーの予定は中止だ」 「……はぁ!?」 言うやいなや、しいなの腕を引っ張ると、よろけた彼女の身体を軽々ひょいと抱き上げる。ビックリして反論も反抗もしないしいなをいいことに、すばやい動作で寝室に続く扉を開けると乱暴に天蓋を押しのけしいなを押し倒した。柔らかい羽毛に埋もれた衝撃で、我に帰ったしいなだが、暴れだす前にのしかかってきた男の身体に阻まれる。 こうしてここに運ばれるのは初めてではないが、……過去にない速さだった。 「ちょ、ちょっと何のつもりだい?」 「何って、こうまでしてもわからない?」 「っ! ディ、ディナー行きたがってたじゃないか!」 「うん、また今度でいいや」 「それじゃ化粧した意味が……!」 あわあわと抗議した言葉は途中で不自然に途切れた。唇に人差し指を押し当てるゼロスの顔は逆光でよく見えないが、赤らんでいるような気がする。彼はわずかに怯えるしいなの頬に口付けると、低い湿った声で囁いた。 「こんなかわいいの、他人に見せらんねぇよ……」 「な、待ち……」 夕飯時には少し早い橙色の斜陽が、声の消えた部屋に音もなく差し込んでいた。 |
自画自酔 |
冒頭の誤解を招くようなやりとりは、ビューラーに挑戦するゼロス先生としいなさんです。
ゼロスは器用なイメージなので、やったことなくても知識だけでばっちり化粧できそう。
そんで自分の作品にノックアウトされちゃうわけです。
でも実際しいなって薄化粧な感じ。ゲーム中では口紅くらいはしてるっぽいですけどね。