するりと滑り込んだ、暖かい男の右手。用があるわけではない。そもそもこの距離だ。何かあるなら一声出せばいいだけだし、それ以前にこの右手に手遊びをする暇はすずめの涙ほどもないのである。
それでもこうして男が接触を求めてくるのは日常茶飯事で、いちいち怒ったり跳ね除けたりするのも面倒になった今では、ほとんど黙認状態だった。とはいえ、うざったいのも正直な気持ちで、さっきおいしい茶菓子をごちそうになって少し気分がよかったことも起因して、しいなはその行為に対して初めて罵声でも暴力でもない対応を返したのだった。

「なんでいつも手を触るんだい?」
向かい合ったテーブルの上でしいなの指や爪を撫で回す男に、空いている方の手で頬杖をついたまましいなはそう尋ねた。手元の書類に目を落としていた男の薄曇の瞳が上げられる。珍しく無防備な瞳。行動とは対照的に意識はそうとう書類の方に没頭していたようで、すぐには返事は返って来なかった。耳の上をすべった質問の内容を思い出そうとして失敗したらしい男は、指をさする手を止めないまま「わりぃ、もいちど」と若干眉を下げて言った。
「だから、なんでいつも手を触るのかって聞いたんだよ」
「……あれ?」
自分でも気づいていなかったのか、右手に収まったしいなの手をきょとんと見つめて、男―ゼロスは不思議そうな顔をした。その様に呆れて、しいなはため息をつきながらするっと自分の手を引き抜いた。どうせまともな答えが返ってくるとは思っていなかったが、答えさえないような手遊びにこれ以上つきあうつもりはない。きまぐれで聞いた質問には、すでに当人が興味を失っていた。

ところが、逃れたはずの手を追ってゼロスの指が再び追いかけてきたものだから、思わずしいなは両手を肩の上に広げた。右腕を伸ばした状態でこちらを見下ろす瞳とぶつかる。
「なに?」
「そっちこそ何するつもりさ」
「だって」
「だってじゃないよ。片手が遊んでたら、効率が悪いだろ。理由がないなら両手使ってさっさと仕事しな」
「…………………」
黙ってしまった。口げんかでゼロスに勝てることなど滅多にないから、きっと何か言いたいことがあるのに飲み込んだのだ。旅が終わって、なぜだか仕事を共有することが多くなって、二人でいる時間が増えたからこそ鈍感なしいなにもわかるようになったゼロスの機微。さまざまなしがらみからわずかながらも開放されて素直になったらしい彼の仕草には時折“子ども”が覗いた。きっと今もそう。
呆れこそすれ、蔑視する気はちっともない。むしろたまにかわいいとさえ思ってしまう。
変わったのは、ゼロスだけではないのかもしれない。

「何さ」
「いやー? 理由ならあるぜ、と思って」
「へぇ?」
再び興味がわいたしいなは、片眉を上げて促した。しいなの手を右手の中に戻すまではしゃべらない、とでも言いたげに伸ばされるそれに仕方なく付き合ってやりながら、端正な顔を見つめる。包まれた手が暖かいのは、まあ別に悪い気はしない。意識することもない。指の腹を押すというさきほどとは違う遊びを始めたゼロスは、触れ合う指先をどこかうらやましそうに見つめながら口を開いた。
「しいなが符術士だからよ」
「……は?」
「だから触るんだよ」
「いや、まったく理由になってないけど」
脈絡のない話を突然持ち出すのも、新たに知ったゼロスの癖だった。一応彼の中では話が繋がっているようだが、そこに行き着く前に話をすりかえられたり、放り出されることも多いので、彼が相変わらずよくわからない思考だという印象は以前と変わらない。
「もっとわかりやすく説明しな」
脅しのつもりで引き戻す力をこめると、それを阻んでぎゅっとつかまれた指にぬくもりが広がった。
「んー、だからな。しいなは斧も杖も持たないっしょ? 扱うのは柔らかくて軽い紙ばっかじゃん」
「符を持つから、なんだって言うんだい? プレセアには無理でもリフィルには負けないくらい筋力は付けてるつもりだけどね」
それは今でも続けている。世界を変える…ほど大きなことではなくても、しいなのまわりでは今も戦闘力を必要とする仕事やアクシデントが存在するからだ。そんなことはゼロスだって知っているはずだろうに、まるで「か弱い」とでも言われたようでムッとした。
するとゼロスはさらにしいなの手を引き寄せながら「そーゆーんじゃなくてさー」とぼやく。ぼやきながらも、いつものニヤニヤ笑いが見え始めたから、おそらく彼はこのやりとりすら楽しんでいるのだろう。
「たとえばほら。俺さまなんかうつくしーとは言えども、剣なんて固くて重いもん持つから掌ガッチガチだろ? たぶんさ、あのメンバーはみんなそうだったと思うんだよ。あ、リーガルの旦那は別にしてな」
「まあね。アンタの手はまめがすっかり固まって全体的に固いけど……」
「だろ? その点しいなは違うわけよ。豆がないから固くない。むしろ柔らかい」

そう言うと同時、ゼロスはしいなの腕を強く引っ張った。自然にテーブルの上を乗り出す体勢をとらされる。気付けばゼロスの灰蒼の瞳がすぐ近くにあった。「突然何すんだい!」と言いたかった唇が不自然に止まる。ゼロスの瞳がニヤリと意地悪く歪んだ。

「単純に言うなら、理由はこれよ。“しいなの手が好きだから”」

赤くなって硬直したしいなをからかうように、ゼロスは右手の中の柔らかな手の甲に甘く口付けた。


フェチ疑惑


  


確かに手は柔らかいかもしれないけど、紙で手を切りそうですよね?(←自分で書いといて言うな)
符術士は好きです。技出すのが早くて楽しい。
それにしてもしいながおとなしい。別人みたい…。