濡れた手を払いながらタオルを探していたしいなは、背後からあがった笑い声に振り返った。笑いの中心には金髪のドジっ娘。本日、詠唱を間違えて新たな術を生み出すという奇跡の偉業を成し遂げた幸運少女だ。 仲間たちはそれぞれ、夕食後に入れた紅茶のカップを包むように持ちながら、星空の下楽しそうに団らんしていた。 「詠唱の途中で「あれ?」って言い出したときは、正直心臓が止まったわよ」 「ホント。詠唱のミスは自分に跳ね返ってくるからね。まさか新しい術になるなんて」 「コレットさんのドジは本当に祝福されてるんですね」 呆れに近い賞賛を受けながら、コレットが愛らしく笑う。こうしていると年よりも幼く見える彼女だが、天使技と呼ばれるクルシスから授けられた術を使うときの詠唱は、なんだか近寄りがたく神聖な雰囲気を持っている。神秘的ともいうのかもしれない。 しいなは洗い終えた鍋を道具袋にしまうと、ともに料理当番だったリーガルにそれを渡して、彼と自分のカップを持って川辺から離れた。焚き火を囲む仲間たちのほうへ歩きながら、平坦な草原を吹きさらす夜の風に身を縮める。 「寒いか、しいな」 「いや、平気だよ。すぐそこのメルトキオに入れれば、あったかい宿で寝られたかと思うと、少し悔しい気もするけど」 「仕方ない。あの町は夜になると城門を閉めてしまうからな。地下水道を通ってまで浸入するのは、よっぽどの非常事態だけにとどめたい」 「まあね」 焚き火の向こうに目を凝らせば、黒く小さくメルトキオ城壁の影が見える。それをうらめしげに見つめながら、しいなは空を見上げた。 きれいな星空。だがそれも東のほうから迫ってくるデリス・カーラーンの不気味な姿が汚している。タイムリミットは近い。こんな風にのんびり出来るのも今日が最後かもしれない。 「時々かみそうになるのよ、特にリキュペレートなんて言い難くて」 「えー! 先生でもそんなことあるのかよ!?」 「ボクだってあるよ。インディグネイションとか詠唱長いからさ、まず覚えるのに苦労したよね」 どうやら話題は詠唱呪文へ移ったらしい。盛り上がっているところに割り込む気にもなれず、もともと寡黙なリーガルと並んで、彼らから少し離れたところに座った。円になった六人の仲間たちの顔を、中央の焚き火が照らしている。ちょうどこちらに背中を向けているお調子者の顔だけが見えない。 「ジーニアスが詠唱の練習をしているのを見たことがあります」 「えっ! プレセア見てたの!?」 「うん、邪魔しちゃいけないよねって、声をかけるのはやめといたの」 「コレットまでっ!」 恥ずかしいのか顔を覆う少年の姿に、再び焚き火のそばに笑いが起こった。たぶんその姿を見たことがないものはいないだろう。最年少の実力と努力をみなが認めているから、この厳しい戦いの中でともにあるのだろうし。 するとふと、こちらに背を向けた紅い髪の男が右手を大げさにさしあげた。 「でもあれだぜー? 詠唱の長さで言えば俺さまのジャッジメントが一番でしょ」 相変わらず妙な抑揚の口調でゼロスはそう主張すると、いつもそうするように低く呟くように詠唱のセリフを再現してみせる。暗い冷静な声音に、しいなは一瞬ぞくっと背筋に嫌なものが走るように感じた。 「!」 「どうかしたか、しいな」 この暗闇の中でしいなの反応を敏感に感じたらしいリーガルが、気遣うように声をかけてくる。はっと我に返って一度は首を振ったが、なんとなく思い直して小さく口を開いた。 「あたし、あいつの詠唱って好きじゃないんだ」 「神子の?」 突然の無意味な告白に、さすがのリーガルも面食らったようだった。一瞬言葉を探してだまり込んだ後、控えめに尋ねてくる。 「なぜ、と聞いてもいいか?」 右からの視線を感じながら、しいなはゆっくりと頷いた。 どうしてこんなことをしゃべる気になったのか、自分でもわからない。ただ、確実に近づいている何かの終わりを感じ、焦っているような心地だった。伝えておきたいことがたくさんあるような気がした。 「リーガルは聞いたことあるかい? あいつの神事での祝詞」 「神子の祝詞……教会の祭典でか?」 「うん」 再度ふられた意図の読めない質問に、それでもリーガルは投げ出さずに考えてくれる。 「いいや、ないな。私はあまり信心深いわけではなかったから、教会にはめったに近づかない。それにこの数年はご存知の通り囚人暮らしだったのでな」 「そうかい」 落胆したわけではない。静かに少しだけ息を吐いて、しいなはもう一度メルトキオの影を見据えた。その厚い城壁の中の荘厳なマーテル教会聖堂を思い浮かべながら、それほど前でもない記憶を手繰り寄せる。あまりいい記憶ではなかった。 「あたしはさ、二度か三度、祭典に参加させられたことがあるんだ。本当は面倒だったんだけど、任務の一環だって言われてさ」 あくびをこらえる我慢比べのような任務だった。あの時、祭壇前に集まった人間たちの何割かはきっとしいなと同じ心地だったのではないだろうか。お偉いさんの中には先祖代々の慣習だから、といって信心などないのに仕方なく参列していた人もいるだろう。儀式の形骸化は今に始まったことではなかった。 そんな中で民を代表して祝詞を述べるあの男の声が毎回印象ぶかくて、終わってからもしばらく不思議な響きが耳に残ったことだけをよく覚えている。 「同じような声で呟くんだ。低くて、落ち着いて、だけどどこか不安定な声でさ。あんな性格なのに、きちんと祭典をこなしてるのがいつも疑問に思ってた」 神などいないと知っているのに、求められる期待にこたえるべく、その瞬間だけは神の存在を信じようと自分をごまかしている。その矛盾がアンバランスを生んでいる。今思えば、それはそういうことだったのかもしれない。 誰よりも女神に、天使に近い存在でありながら、その恩恵を信じなかったゼロスは、天使の技などというものを授けられて、今再びアンバランスを抱いているように見えるのだ。 「あいつはさ、調子づいてるくらいがいいんだよ。お茶らけた声でさ、適当なこと言いながら、ときどーき思い出したように真面目をやるくらいがちょうどいいのさ。あんなふうにぐらぐらした心を見せ付けられたんじゃ、心配でしょうがないよ」 何を言ったのか、リフィルの蹴りを額に喰らって仰向けに倒れる男を見つめながら、そう呟いた。情けなさをたぶんに含んだふざけた悲鳴が耳に届く。 「しいなは優しいのだな」 そういうリーガルの低い声もとても優しかった。微笑んでくれるその顔を見上げながら、少しだけ頬を染める。急激に現実に戻ってきた気がしたのだ。 「や、あたしってば、何言ってんだろ。ごめんね、変なこと言っちゃって」 「いや、私も神子について考えさせられた。彼は存外奥ゆかしい人間だからな」 「あはは、奥ゆかしい……ね」 焚き火のそばでゴロンと仰向けになった男が紅い長髪を草の上に広げながら、さかさまの世界でこちらを見つめていた。しいながそちらに気付くと、とたんにニヤリと下品な笑みを浮かべる。 「なーに楽しそうじゃないの、しいなー。旦那に口説かれちゃった?」 「な、バカなこと言ってんじゃないよ」 「いや、私のほうが口説かれたようだ。神子、そなたのことについてな」 ゼロスのふざけた顔が一瞬にして真面目なものに塗り替えられた。不機嫌そうに眉を寄せると、身体を起こして振り返る。感情を素直に表すなんて珍しい、と思ったら、隣の男も同じことを思ったらしく。 「奥ゆかしくないところもあるようだな」 ぽそりと呟いたのに、笑いがこみあげた。腹を抱えて笑うと、怪訝そうにこちらを見るゼロスがさらに濃いしかめ面をしている。 「んだよ、面白くねーなー。俺さまについて何を語り合っちゃったわけ?」 「さあね、自分で考えてみな」 「……しいなは俺さまのことが好きで好きで夜も寝られないほど、とか?」 「え、マジかよ、しいな!」 「わあ、しいな。ほんと?」 真に受けて目を丸くする仲間たちにおおげさに手を振りながら、しいなは立ち上がって叫んだ。 「そ、そんなこと言うわけないだろ! このアホ神子!」 近づく終わりの時。彼のアンバランスにも終わりが訪れればいいと、心の中で願いながら。 |
アンバランス |
ジャッジメント習得後…だから救いの塔後ですね。たぶんデリス・カーラーンに突入する前。
しいなとリーガルの組み合わせというのが自分でも驚きですが、わりと相性はいいみたいです(私の中で)
それにしてもジャッジメント詠唱はかっこいいですよねー。ゼロスには絶対ミスティシンボルつけません!