一応世間一般に言う恋人同士、という関係になった二人の逢瀬は、まずケンカから始まる。
人目も気にせずいちゃつきたいらしい兄に対して、公衆の場はおろか二人きりの時でさえ愛より羞恥が先に立つしいな。
不意打ちの抱擁のあと、真っ赤になってわめく暴力女と悲鳴をあげる兄のやりとりは、公私関わらずしいなが我が家に訪れたときの玄関先必須イベントと化している。よくもまあ毎回毎回同じケンカを繰り返して飽きないものだと感心してしまうが、しいなはともかく兄のほうはこのやりとりすら楽しいらしい。
「ケンカするほど仲がいいって言うでしょ?」
命知らずにもそんな名言……いやこの場合は迷言を、本人の前でひょうひょうと言ってのけて、火に油を注ぐこともすでに日常茶飯事だ。今さらいちいち関わるのも面倒なのでセレスは見て見ぬふりを決め込んでいた。

そんなある日。幸いというか、残念というか。兄の不在時に突然しいなはワイルダー家を訪れた。
重い玄関の扉から警戒するようにそーっと顔だけのぞかせた彼女は、まるで猫のようにするりと忍び込む。突然の事態にも動揺しない執事に迎えられてなお、彼女は屋敷の中を気にしているようだった。
律儀に前もって連絡してから訪れるのが常の彼女にしては、およそらしくない。明らかにおかしい。兄の代わりに挨拶に下りたセレスは、思わずトクナガと顔を見合わせて尋ねた。
「しいなさん。どうかしましたの? 突然来られるなんて珍しいですわね」
「セレス! ああ、悪かったね。ちょっとさ……」
茶を用意するセバスチャンに丁寧に遠慮しながら、しいなはこちらをくるりと振り仰いだ。セレスが下りてくるのを待って、階段の上をのぞき見る。
「あー……あいつは、いない……んだよね?」
そう問うしいなの口調には、恋人の不在を残念がるというよりは、むしろ安心しているような響きがあった。ますます不審に思ってセレスが首を傾げると、彼女は困ったような後ろめたいような表情を浮かべて、似合わない愛想笑いを浮かべる。ひどく言いにくそうに口を開いた。
「ちょうどよかった。あのさ、セレス。……ちょっと付き合ってくれないかい? そうトクナガも」
「わたくし? お兄様ではなくて、わたくしとトクナガですか?」
「うん。あんたたちなら詳しいから、アドバイスくれるんじゃないかと思ってさ」
どうやら不意の訪問は兄の不在を狙ってのことだったようだ。留守中にしいなが訪れたことを知ったら兄はどんな反応をするだろうと想像して苦笑してしまうが、ともあれセレスと、しかもトクナガに用件とはどのようなものだろう。
「お力になれることならかまいませんわ」
しいなの頼みと言うのに興味を持ってセレスが頷くと、しいなはほっとしたように笑った。

兄の恋人という関係でなければ、しいなのさばさばした態度や物言いはわりと好きなタイプだ。時々カチンとくることもあるが、良くも悪くも素直な彼女の存在は、修道院で軟禁生活を余儀なくされていたセレスにとって貴重な友人でもあった。最初は兄との関係における嫉妬ゆえ素直になれなかったが、いざ二人が正式にお付き合いの関係を掲げると、セレスの中のややこしく面倒な矛盾はあっけなく消えた。セレスがうちとけてしまえば、しいなは優しかった。以来、二人はわりと良好な友好関係を築いている。
それでも彼女らの間に兄ゼロスの存在は欠かせないわけで、こんな風にしいなと二人きりで出かけることなど初めてのことだった。
「紅茶ならわたくしでなくとも、お兄様だって十分詳しいですわよ?」
アールグレイとダージリンの箱をそれぞれ両手に持って吟味している横顔に、セレスはいまだに怪訝そうに問いかけると、しばしの沈黙のあと「んん?」という生返事だけが返ってくる。紅茶葉選びに夢中になっている今は何を問いかけてもまともな返事は期待できそうにはなかった。
兄と彼女の旅の仲間でもあったブライアン公爵にお礼をしたいので、一緒に紅茶を選んで欲しい。
しいなの頼みごととはこういうことだった。ブライアン公爵は「コーヒーなど泥水」と称するほどの紅茶派だというから、贈り物にするには適当だと思う。けれどわざわざこっそり訪ねてセレスに助言を仰ぐほどのことでもないだろうに。
もしかしたら兄へ内緒しなければならない理由でもあるのかとも思ったが、そういうわけでもないようだった。
(またケンカでもしたのかしら……。)

メルトキオ上級商店街で唯一の茶葉店は、王室御用達の超高級店だ。歴史のある老舗ということもあって、店内は重厚で上品な雰囲気に統一されている。さすがのセレスでもちょっと躊躇してしまうような、敷居の高い店だった。
店の雰囲気に馴染む落ち着いた貴族たちと違って、メルトキオのどこにいても浮いてしまうミズホ装束のしいなの姿は、明らかにここでは異質。平然堂々としている本人の代わりになぜかセレスのほうが恐縮してしまっていた。

「そりゃあ、あいつが癪に障るくらい何にでも詳しいのは知ってるさ」
やがてアールグレイの箱を棚に戻したしいなは、ふと思い出したようにのんびりと言った。一瞬セレスのほうが何の話だかわからずきょとんとすると、「さっきの質問」と付け足す。
生返事でも聞いてはいたのか。
「でもあいつと出かけるの、イヤなんだよね……」
「……なぜですの?」
「だってあいつと街歩くとさ、そこらじゅうから不愉快な視線を向けられるし、ちょっと目を離すといなくなってるし。そのくせどこへ行くにもついてきたがるんだから、面倒くさいったらないよ」
呆れ混じりに苦笑したしいなはトクナガに説明を請いながら、続いてアッサムに手を伸ばした。まるで恋人の軟派ぶりには怒りを抱いていないらしい。それどころか、無理しているわけでも演技しているわけでもないのだから、セレスには不思議でならない。

妹としても兄の女好きには辟易しているのだ。そんな無責任な男をこの律儀な女が許せるとは思えないのに。
しいなは兄を殴ることはあっても、本気で嫌うことはない。見捨てることはない。
そう寛大でいられる理由が知りたかった。
「腹が立ちませんの? あんなちゃらちゃらしたお兄様を」
するとしいなは少しだけ驚いたように目を丸くして、紅茶からセレスへと視線を見下ろした。珍しいものでも見るように「へえ」と片眉を上げる。
「あんたが『お兄様』を悪く言うなんてね」
「わたくしだって女ですもの。兄みたいな男性とは、わたくしは付き合えそうにありませんわ」
自分がそうとう兄に固執しているのは自覚している。けれどその理由は全て「唯一の兄だから、家族だから」という点に集約できるのであって、それ以外では受け入れられない部分もある。誠実でない女関係もそのひとつ。
だからしいなを正式に恋人として紹介してくれたときは、嫉妬以前に安堵が湧いた。とうとう真面目に付き合う気になったのかと。 それなのに、頻度は落ちたとはいえ、相変わらず兄の女性交友関係は広い。
セレスの容赦ない兄への批判に苦笑したらしいしいなは、再び手元へ視線を戻すとセレスの顔を見ないまま言った。
「そうだねー。セレス、あんたはもっと真面目な男と付き合いなよ。その方が絶対幸せになれるからね」
穏やかな笑みを浮かべて呟いたしいなは、アッサムを棚に戻すとダージリンを抱えて会計に向かった。あまり自然に言われたものだから、つい聞き流してしまいそうになったが、今のセリフは皮肉なのだろうか。それにしては邪気のない柔らかな笑みで、セレスはひどく困惑した。
真面目な男となら幸せになれる。
それを知っているのに、軽薄な兄と付き合うしいな。呆れつつ、兄を見捨てないしいな。
そこにはどんな想いがあるのだろう。
結局質問をはぐらかされたことに気付いたのは、包装を終えた贈り物の紙包みを持って、しいなとともに茶葉店を出た瞬間だった。

「あ」
短い単語未満の間抜けな声を上げたしいながピタリと足を止めた。背中から前を覗き見るとそこには自分によく似た紅い髪の男。件の不真面目な兄だ。その腕になだれかかるように、兄のファンであり確かクラブナンバー6を名乗っている貴族の女が立っている。
真正面からしいなと鉢合わせた二人は、しばし硬直してたたずんでいた。
まさに最悪のタイミング。噂をしていたからだろうか。何もよりによってこの状況でめぐり合わなくても……。
なるべく避けるようにしている兄としいなの痴話げんかが始まるのではないかと、セレスは顔をしかめて隣に立つしいなを窺った。いつものように眉を吊り上げているかと思ったのに、意外なことに彼女の顔は不自然なほど穏やかで、逆に気味が悪い。
嵐の前の静けさとかいう表現は、みごとに今この状況を指すのだろうと直感した。
「…………よ、よお、しいな! あ、セレスも! なんだよー、メルトキオに来んなら連絡しろって言ってるだろ?」
数秒の硬直状態から解かれるとナンバー6を離して、兄はさっそくしいなに向かって腕を広げる。二人の逢瀬のお決まりであるアレのつもりだろう。決定的瞬間を見られてよくもまああそこまで開き直れるものだと、セレスは呆れを通り越して感心した。
だが、当然ではあるが、兄の望むぬくもりは叶えられなかった。
「あいにく、あんたはお忙しいみたいだからねー。セレスに付き合ってもらったから大丈夫さ」
兄が伸ばした腕を冷酷に払いのけるしいなの口調には露骨なトゲ。それとは対照的にますます彼女の笑みは深くなる。セレスは緊張に背筋が寒くなるのを感じた。
「うぐ……。連絡くれれば空けて待ってたのに」
「別にもともとあんたに用事があったわけじゃないし。忙しいのにわざわざ時間を割いてもらうのがしのびないからね。それよりあんた、彼女ほったらかしでいいのかい?」
そっけなく言ってナンバー6を示すと、兄は確かに舌打ちをした。頭のいい女ならここですぐに立ち去るか、気の強い女なら何がしかしいなに攻撃してくるだろうに、どちらでもない彼女は困ったように兄を見上げる。
「ゼロス様……」
「あ、ああー……。その……な」
はっきりしない兄の態度にしいなのまとう雰囲気が着実に冷えていく。普段は烈火のごとくわめく彼女が、ブリザードのように怒るというのは珍しいだけに深刻だった。
これはもう「ケンカするほど……」などというレベルではない。むしろ修羅場だ。

「ほんっとにあんたって男は……」
低く呟いたしいなが右手を振り上げる。彼女が兄を殴るときの勢いに似たそれに、いち早く反応した当人はとっさに目をつぶった。
その一瞬、兄の視線が途切れた隙に、しいなが浮かべた切ない表情。そこにさきほどはぐらかされた質問の答えを見た気がした。
呆れても怒っても、底辺の部分で見捨てられないしいなの想い……。
兄の予想に反して、振り上げられた腕が彼の頭に降ることはなかった。代わりにしいなはその腕でセレスに向かって別れのジェスチャーを示す。
「ありがとうセレス、トクナガ。助かったよ。それじゃ、あたしは帰るね。リーガルと約束があるんだ」
さすがに今回は人前ということもあり、兄の相手は放棄を決め込んだらしい。覚悟した衝撃がなくて、恐る恐る目を開ける兄の横を、しなやかにすり抜けてしいなは歩き出す。
ならば彼女の意図に乗ってやろうと、セレスもなんでもないように手を振り返した。
「ええ、またお待ちしておりますわ」
「藤林様、気をつけていってらっしゃいませ」
「お、おい。しいな!」
兄の呼びかけはさっぱり聞こえないふりで、しいなはすぐに人ごみにまぎれた。消えた桃色の帯を見送って、そっとセレスは兄へ視線を向ける。
はたから見て明らかにわかるほど、大きなショックを受けている様子だった。いつだって本気で向き合ってくれる彼女が、怒り呆れてケンカすることさえ投げ出してしまったのだから。ナンバー6が呼びかけるのも取り合わず、呆然としている。

やがて我に返った兄がその後を追おうとするのを、ふと思いついてセレスは呼び止めた。
「お兄様」
「あ? なんだよセレス」
「これでも痴話げんかのうちですの?」
「……………………」
我ながら意地悪な質問だと思った。この修羅場を兄だって軽く捉えてはいないだろう。その証拠に振り返った兄の眉間に険悪な皺が寄っている。ミズホの民であるしいなは、その気になれば簡単に煙になれるのだ。今見失えば、事態はさらに悪化する。
けれどこうなったのは、間違いなく自業自得なのだ。悪いが今日の妹は兄の味方ではなく、女の味方。
セレスの意地悪な心のうちを読んだのか、兄は皮肉たっぷりに笑った。
「ああ、そうだよ! あいつが怒らなくなったら俺さまはもう終わりだぜ?」
無関心になることは案外楽なことだ。相手への感情を放棄してしまえばいいのだから。特別な関係を作らなければいいのだから。
けれど毎回彼女が怒るのは、そこに理性で制御できない感情があるからだと、兄は知っている。だから痴話げんかすら楽しいのだろう。
ところが、余裕たっぷりな兄の笑みも長くは続かなかった。すぐに苦笑を浮かべて。
「まあ今回はちょーっと難易度が高いけどな」
言うと同時に身を翻す。しいなが消えた方角へ向かって長い足を振り上げて駆けていくのを見送って、セレスは笑った。

不真面目な兄を律儀なしいなが捨てきれない理由。嫌うことができない理由。
そんな単純なこと、聞くまでもなかった。だってそれは恋人同士である二人にとって大前提の感情。


「好きだから」


  

 セレス視点だとしいながかっこよくなる不思議。逆にゼロスが情けなくなりますね。
 浮気性とか遊び人気質って治るのかなー?