●1 雨
雨を待っていた。 研究所が発表した本日の天気予報は曇りのち雨。午後の降水確率は60%だ。 どんよりとあつぼったい雲の下、資料配達と報告のためにしいなが屋敷を訪れてからすでに数時間たっている。仕事にきりがついて軽い昼食をとってから、しいなはちらちらと落ち着きなく窓の向こうを気にし始めていた。 帰宅のタイミングを計っているのだろう。できることなら雨が降る前に帰りたい。言葉に出さずとも彼女の仕草は如実に本音を表現している。 手に取るようにわかる彼女の焦りを、けれどゼロスはちっとも気付かないふりで黙殺するのだ。 早く雨が降ればいい。そのたった一滴で、彼は彼女を引き止めることができる。 冷めた紅茶の残りをあおって、ゼロスは静かに息を吐いた。「帰る」の一言とどちらが先だろうか。秘された卑怯な賭けを彼女は知らない。 ポトとかすかな音で雨だれが歌ったのはカップをソーサーに戻すのと同時だった。一滴二滴、メロディを奏でたそれはすぐに後援を引き連れて大合唱を始める。あっという間に部屋は音で満ちた。 「あーあ、とうとう降ってきちまったよ」 カーテンをめくって雨に煙る街を見下ろしたしいなはうんざりそうに肩をすくめた。 予想以上の豪雨だ。にわか雨でなければいいが。 ともあれ賭けの勝負はこちらがもらった。盛大な雨音に満足して、ゼロスはひっそりと微笑む。 「予定のない日の雨はいいもんだろ。情緒があって」 「あたしはこれから帰るんだよ! まったく他人事だと思って」 まるで不真面目なゼロスの発言に不機嫌の矛先を向け怒鳴ったしいなは、再び恨めしそうに窓の向こうをみつめてがっくりとうなだれた。 帰ろうか、帰るまいか迷っていたところだから、余計に悔しいのかもしれない。途中で豪雨に打たれるよりは足止めされたほうがマシだろうと思いつつも、さすがに哀れに思えてゼロスは瞳だけで苦笑した。 残念ながら雨はしいなではなく、ゼロスの味方についたのだから仕方ないだろう? 音もなくソファから立ち上がったゼロスは、しいなの後ろからしがみつくように腕を回して肩に額を預けた。 「いいじゃねーか。雨宿りしてけよ」 低い声で甘えるように囁く。かかる吐息の温度まで敏感に感じ取ったらしい彼女は小さく震えた。 耳まで真っ赤になりながら、あくまでも平静を装って腹に回された冷たい手に白い手を重ねる。たとえあくどい企みを見破ることはできずとも、彼女はゼロスの子どものように真っ直ぐな願望には聡いのだ。 「寂しいのかい?」 「……ん、そーかも」 「しょうがないねぇ。じゃあ、雨が止むまでそばにいてあげるよ」 腕の中でクスクスと笑う彼女に深い安心感を覚える。なんだか泣きそうになってしまって、ゼロスはより一層腕に力をこめた。 どうか少しでも長く降り続きますように。 雨を待っていた。この体温をつなぎとめるがために、たった一雫を待っていた。 漢字1文字お題シリーズ。 しっとりな雰囲気を目指し失敗。 出かける日の雨は迷惑ですが、家にいる日の雨は素敵ですね。雨音が眠気を誘う……。 |
●2 本 「ちょっとゼロス!」 簡易な食堂も兼ねた小さな宿屋にしいなのとがった声が響く。身内の他に宿泊客もおらず貸しきり状態であるためか、その声量に遠慮はない。 だからと言ってここは彼らの家ではないのだ。 「これ! 人からもらったものじゃないのかい? こんなところに放っといたらダメじゃないか」 食後のテーブルの上に置かれたままの本を取り上げてしいなは肩をすくめた。個人のものはきちんと管理してほしいものである。 「なーによしいなちゃん。そんな大声上げたら、村中の人間が鬼女の奇襲だって勘違いしちまうぜ?」 「誰が鬼女だ!」 廊下からひょこっと出た男の顔を目がけて手の中の本を投げつけそうになるのを寸前でこらえる。この村で鬼女といえば強欲のライラのことだが、彼女はしいなのように大声をあげるような女ではない。まだ寝るには早い時間とはいえ、確かに驚かせてしまうだろう。 「それはともかく、この本」 振り上げた腕のままひらひらと本を振ると、ゼロスはわずかに顔をしかめながら食堂の低い入り口をくぐった。 「あー、それいらないわ」 「なんでさ。読んだのかい?」 「読んでない。読みたくない」 嫌なことはさりげなくなにげなく回避してしまう彼がこうも正直に嫌悪感を示すのも珍しい。しいなはきょとんと彼を見つめて、それから手元の本に視線を落とした。 青い表紙のそれはエッセイらしい。特に分厚いわけでもないし、極端に文字が小さいわけでもない。お堅い本ならともかく、敬遠するような類のものではないはずだ。 「あれ、あんた文字読むの苦手だっけ?」 思いつきで尋ねてみたものの、そうではないことをしいな自身がよく知っていた。だって彼は毎朝きちんと新聞を読んでいる。それならばなおさらこれを拒む理由がわからない。 首を傾げるしいなに苦笑したゼロスは、椅子に足を組んで腰掛けながらいびつな表情で弁解した。 「俺さまさ、主観が入った文章って嫌いなんだよねー」 「主観?」 「そ。そもそも文章なんてのは、書き手の思想やら感情やら個人的なものを不特定多数に押し付けてるようなもんだろ? 俺さまはそんなのごめんだってことよ」 「はあ……」 内容はわかるが、いまいちぴんとこない。しいなは曖昧なあいづちを返して眉を歪めた。 ゼロスという男は軽薄な仮面の下に意外に頑固な意思を持っている。それはほとんど表現されることはなく彼の中でうまく処理されているようだが、時々こうして白々しい演技を伴って表面化されることがある。 見えにくい彼の本質が垣間見える瞬間であり、せめてそれくらいは理解できたらと常々思っているのだが。 「よくわかんないよ」 いかんせん、抽象的で難しい。素直な感想を口にするとゼロスは苦笑した。 こういう時、たいてい彼はわずかに寂しそうな笑みを浮かべる。理解されないのは仕方ないと最初からあきらめているようにも見えて、しいなは自身がふがいなくなる。 「つまりだな、他人の意見に左右されたくないってこと。特に昔から思想すら周囲に都合のいいように矯正されてきた身としては、敏感になっちまうってことよ」 「あ……」 ゼロスが何を言わんとしているのかをようやく悟って、しいなはぱっと口元を押さえた。 神子として、幼いころからたくさんの知識を身につけてきたゼロス。そのほとんどは周囲の大人たちに与えられてきたものであろう。中には偏った意見や思想があったはず。 確かに文章というのは書き手の個人的な思いが宿りやすい。実際にこの手の中のエッセイだって、ゼロスに一方的な意見を押し付けるものであるのかもしれない。 だとしたら、拒む理由も正当なものだ。礼儀だといってしいなが強制できるものではないだろう。 「…………ごめん」 「別に気にすんなよ。わかってくれたんならそれ、捨てといてくれればいいし」 「…………うん」 まだ新しい本の表紙を撫でて、しいなは俯く。なんだか後ろめたいが、所有者がいらないというものをどうできるわけでも……。 「そう。気にしなくていいわ、しいな」 困ってしまったしいなの背後から、冷静な女性の声がかけられた。美しい銀髪がしっとりと濡れているのは風呂上りなのか、彼女はいかがわしいゼロスの視線から逃れるように持参した分厚い図鑑を広げた。 「どうせそんなのは、本を読まない言い訳よ」 「言い訳?」 「そのとおりだ、しいな」 聞き返すと今度はどっしりと低い声が返る。ゼロスと同様に入り口をくぐって現れたリーガルが、珍しく呆れた感情を表情にのせてしいなの手から本を取り上げた。表紙を開いておおまかな内容を察したのか、苦笑を浮かべる。 「スラム蔑視の貴族が書いたエッセイか。なるほど神子が厭うわけだ」 「だってしいなが読めって無理強いするからよ。俺さまは言論の自由に対する、受け入れる側の正当性をアピールしたわけだ」 「それなら言い方があるでしょうに。しいなが困ってるの見て、楽しんでたんでしょ」 ページをめくりながらそ知らぬ顔でリフィルが非難する。思いがけない乱入者たちから次々と発せられる指摘にどうにも状況の把握が追いつかなかったしいなの頭は、ようやくその言葉で我に返った。 とどのつまり、からかわれていたのである。 「ゼロス!!」 「わー、嘘は言ってないだろ? 俺さま悪くなーい」 リーガルから戻された本を振り上げてしいなは眦を吊り上げた。 すっかりだまされた。けれどあんなふうに彼の暗い過去をほのめかされたら、誰だって真に受けてしまうだろう。 赤いてっぺんを目がけて角を振り下ろすも、あざとく危機を察知した男はさっと身を引いて立ち上がった。 「そもそも読んで感想聞かせろなんてずいぶん勝手な注文だと思わねえ? 批判的な感想なんて端から聞き入れるつもりもないくせに」 「だからって捨てるなんて無礼にも程があるよ」 「いらんもの押し付けるのは礼儀違反じゃねーのか? 読みたくないもの読ませられるこっちの身にもなれってんだ」 「それがあんたの仕事だろ?」 不本意でも神子として貴族として、そういう付き合いは避けられないものであるだろう。 「しいなの言うとおりだ神子。軽くでも目を通さねば感想も浮かばない」 「えー」 さすがに分が悪いと察知したのか、ゼロスはしぶしぶ本を受け取った。げんなり、と鬱屈そうなオーラを背負いながらページをめくる彼の姿を見て、しいなは複雑な気持ちになる。 仕事だから仕方がない、貴族だから、神子だから……。 彼は多くの建前のもとに、いろいろなものを甘受してきたのだろう。生まれたときからずっとずっと、しがらみから逃れられずに多くのものをあきらめてきたのだろう。 言い訳と称された彼の主張が嘘だったとは思わない。実際ゼロスはそういう本音を内包しながら、軽薄な笑顔でそれから目をそらしてきたのだろう。 だからせめてこの旅が終わった後には、彼が解放されるように。彼の立派な意思が世間に押しつぶされないように。 「何か手伝えることがあるなら言いなよ」 頬杖をついて文字の列を追うゼロスの隣に腰掛けて申し出る。顔を上げたゼロスが一瞬きょとんとして、それから何かを期待するような笑顔を浮かべた。これは何かを企んでいるときの顔。 ゼロスは開いた本をしいなの方へ突き出すと、にっこり要求した。 「じゃ、読み聞かせて? しいなが朗読してくれるんならー、俺さまもやる気出るって言うかー」 窮屈な思想を強いられた神子。……だからといって、甘やかしてはいけない。 「調子に乗るなー!!」 鬼女の怒声とともに、本の角が赤髪のてっぺんにめりこんだ。 舞台設定としてさりげなくイズールドです。あそこ宿屋あったかな? 皮肉屋ゼロス。口が達者な人はきっと嫌なこともさらりと避けられるんだろうなぁ。 ちなみに、文章を書く(読まれる)側と読む側っていうのは意外に複雑な関係らしいです。 文学評論って岡目八目の立場だと面白いもんだなぁと思います。 |
●3 髪 月に一度の王城一般開放日はメルトキオの大通りに多くの人が溢れ返る。特にこの季節は庭園のバラが美しく咲き誇るので、中央階段の混雑は極まりない。 かくいうしいなもその構成の一部であるのだが、それでもやはり窮屈なのは不快だった。 「しいな、つぶれんなよー」 ごった返す群集に圧迫されもがくしいなを、ゼロスがかばうように引き寄せた。 少し楽になって一息つくも、向かってくる人の波は絶えることはない。これでは街から出ることも不可能だろう。 困ってしまって腕の中から見上げるとちょうど彼のあごが見えた。こういうアングルで見上げるのは珍しく、少し恥ずかしい。 「いったん避難したほうがいいかもな。うちで休んでけよ」 「そうさせてもらうよ」 素直に言葉に甘えるとゼロスは上機嫌で笑った。彼らはそのまま波に乗ると貴族街へ流れていく。 以前ならたとえごった返す混雑の中でもこのようにかばわれることは許さなかった。 恥ずかしいのはもちろんだが、自分が男に所有されているようで嫌だったのだ。特に女とあらば誰にでもそういう扱いをしてみせるこの男はどうにも腹立たしくて、恋人同士という関係を掲げるようになった当初も軽々しく触れさせなかったのはそういうことだ。 だけど今はこうして腕の中にいることが不快じゃない。それは所有されることを許したということなのだろうか……。 貴族街と王城通りが交わるもっとも混雑した場所で、肩に置かれたゼロスの手に力がこもった。 「っ!」 振り返ると上機嫌な笑みが苦々しいものにすりかわっている。彼は後ろ髪に手をやるとため息に似た吐息を落とした。 「ゼロス?」 「いんや、なんでもない。早くお茶でも飲んでのびのびしたいわ」 牛よりも遅い波の流れに嫌気がさしたのか。少し余裕のある貴族街にさしかかると、ゼロスは足を早めた。 ワイルダー邸に帰る頃には駆け足のようになっていて、しいなは息を荒げて背後に閉まった扉に身を預けた。 「な…なんだいゼロス。そんなに嫌だったのかい?」 控えていた執事にいつものように茶の用意を指示すると、ゼロスも倒れるようにソファへ沈み込む。その横顔はどこか複雑な感情を見せていた。 彼は首の後ろの毛先を目の前でつまむと力無く笑った。 「やられちまったなー」 「何が?」 ソファの彼へ近づきながら首を傾げる。ほら、と見せられた赤い髪の一房が他の部分より短くなっているのに気付いてしいなははっと息を飲んだ。 「何それ!」 「切られちゃったー」 自慢の髪が傷つけられたというのに、のんきに笑うゼロス。代わりに青ざめたのはしいなのほうだった。 「切られちゃったーじゃないよ!大変じゃないか!」 切り口が揃っているのは凶器が刃物だから。一歩間違えたら切れたのは髪だけではない。 「誰がこんなこと!」 「んー俺様を熱狂的に愛しちゃってる子だな。逃げてくの見た」 「な、なんで捕まえなかったんだい!?」 飄々と答えるゼロスに唖然としながらしいなは怒鳴る。まるで他人事みたいな言い方だ。すると彼は少しだけ悲しそうに顔を歪めた。 「髪くらいいいだろ。別に痛くなかったし」 「痛いとかの問題じゃなくて…!」 「代わりなんだよ」 しいなの剣幕を遮ってゼロスは言った。しいなの丸くなった目にかかる前髪を、愛おしそうによけながら彼は続ける。 「俺様本体の代わり。気持ちも体もあげられないんだから、髪の何本かくらいいいだろ」 「…………」 おかしいと思うのに何も言えなくてしいなは唇をかんだ。 ゼロスを好きで好きでしょうがない女が大勢いることは知っている。過去にゼロスが彼女達と遊んでいたことも十分承知だ。 けれど彼はしいなを選んだ。みんなのゼロスはいきなりしいなに奪われたわけだ。 人の想いはそんなにすぐにキリのつくようなものではない。 そんな彼女たちのためにせめて髪くらい譲ってあげようというのはゼロスの罪悪感かもしれない。 それでもしいなは納得がいかないのだ。 もちろんそれは髪の一房も譲れないという狭い心ではなくて。 「あたしはそれだけじゃ満足できない」 無意識に滑り出した言葉。 もし自分なら動かないしゃべらないそんな代わりじゃ満たされない。 この髪の先から声と体温、心まで全部自分のものでなければ嫌だと思った。 底無しの独占欲。 「…………っ!」 正直で貪欲な自身の願望を自覚した瞬間、しいなは驚愕と羞恥に口を覆った。 なんてことを口走ったのだ。 発言の深意にすぐには気付かなかったゼロスも、しいなの仕種に確信を得たらしくわずかに目をみはる。 「あれま−、しいなの口からめっずらしー」 「ちち違うんだよ!嘘だから今のは!」 赤い顔で必死に両手を振ろうともしいなほど正直な人間は滅多にいない。 屈託なく笑ったゼロスは背もたれから身を起こすと、しいなに向かって手を伸ばした。細められた視線に込められるのは、慈愛と企み。 「大丈夫よしいなちゃん。しいなだけに俺様の全部をあげちゃうし。もちろん大満足をお約束します」 「な…なんのつもり?」 警戒して後ずさるしいなを逃すまいと腕をからめて。 見下ろす笑顔に潜むのは貪欲な熱。 「今から俺様をプレゼントしちゃおうかと思って」 所有されるのは嫌だった。独占しようとも思わなかった。 だけどそれは愛の本質を知らない幼いわがままだったのかもしれない。 所有されてもいい。相手の全てを独占できるなら。 がっしりホールドされた腕の中で、しいなは本能が求める欲望をしぶしぶ認めた。 しいながまるで別人だ! 独占欲のしいなはまったくしいならしくないのだと気付きました、今。 でもどうだろう。真剣に恋する乙女になったらこれもアリなのかなぁ。 ……下書き中の授業内容がジェンダー論だったせいか、そんな影響を受けていますね……(汗) |
●4 鈴 宿屋へ向かうレンガ敷きの大通りで、背後からかすかに愛らしい鈴の音が響いた。どこかで聞いたことのあるような、軽やかな音色。 ゼロスと並んで最後尾を歩いていたしいなが、反射的に振り返る。モンスターとの遭遇が危惧される街道ならまだしも、比較的安全な街の中では不釣合いに俊敏な反応だ。 あまりの勢いにゼロスもつられて首をめぐらせれば、音の正体は黒猫の首に付けられたものだった。近くの塀から飛び降りたらしく、音が響いたのはそのためで、特有の軽やかな歩みではもう鈴の音は聞こえない。二人の人間の視線などお構い無しにつんとすまして雑踏をすりぬけた猫は、すぐに街の隙間に消えた。 どこでもあるような、そしてすぐに忘れてしまいそうな日常の出来事。ゼロスは特になんの感慨もなく視線を前に戻す。気付けば一行はすでに雑踏にまぎれて小さくなっていた。かろうじてリーガルの青い髪が確認できる。早く追いつかなければはぐれるし、そうなればリフィルの小言をくらう羽目になるだろう。 「おい、しいな……」 いまだ振り返る姿勢のまま動かないしいなに声をかけて、ゼロスはふと口をつぐんだ。 茶色の瞳が見つめる先は、どこか遠く。今はもう届かない記憶。 やや俯いた横顔はまるで激痛をこらえるかのように歪んでいて、見ているこちらまで痛い。 呼びかけが聞こえているのか、いないのか。彼女は同じところを見据えながらそっと何かを握りしめた。 赤い紐のついた小さな何か。そう前の出来事ではない悲劇と過剰な反応とが合致して、ゼロスは納得し、同時に苛立った。 彼女の古くからの親友であり、唯一の理解者だった精霊の死。それもトラウマにすくんだ彼女を守るための犠牲だった。その光景はもしかしたら悲劇の再現だったかもしれない。 結果的に過去の失敗を克服するかたちで落ち着いたが、得たものと同時に失ったものも大きかった。 気丈に振舞ってはいるが、時折頼りない表情を浮かべているのも知っている。幼き日の後悔とともに彼女は一生背負い続けるのだろう。 そのための形見。思い出も信頼も懺悔も、すべて抱き続けるための媒体。 ゼロスにはそれを咎める権利はないし、かと言って奨励する意見も持たない。だから関わらずにそっとしておくべきなのに、どうしてか腹の底に留まる澱があった。 「そんなものにいつまでもすがってんなよ」 「っ!」 毒をはらんだ声音に凍ったように固まっていたしいながびくんと肩を揺らした。形見を両手で握りしめながら彼女はのろのろと顔を上げて、ゼロスを瞳だけで見上げる。ビックリしたように見開かれた瞳の奥に、ひがみっぽい感情が見えた気がしてゼロスはさらに苛立った。 「忘れないってのは大事なことだろうがな、引きずることとは違うだろ。そうやって何度も振り返ってたら、あの狐だって浮かばれねーぜ」 彼女の命を身を挺してまで守ったのは、彼女に生きていてほしかったからだ。その生きるとは決して後ろ向きな湿っぽいものではなく、俯かずに前を向いて歩いて欲しいという願い。 それなのに自らの死のせいで、彼女の人生が望まぬものになってしまっているとしたら、あの精霊だって後悔と罪悪感で穏やかでいられないだろう。 「な、なんだい! あんたなんかにそんなこと……!」 「ああ、そうだろ。言われたくねーよな。お前の気持ちなんて俺がわかるはずもない」 真っ赤な顔でつかみかかってきたしいなの腕を逆にきつく掴み返して、ゼロスはふんと鼻を鳴らした。 イライラする。それは彼女に対してだけのいかりではないかもしれない。 形見にすがる痛々しい姿。ゼロスにとってもそれは身近なものではなかっただろうか。 「お前だけが不幸だなんて思うなよ。いつまでも未練残してかわいそうな振りするなよ。お前が振り返ってる間に、あいつらはずっと前に進み続けてんだ」 やや乱暴にしいなの腕をひいて、見習うべき仲間たちをゼロスはあごでしゃくった。二人の姿がないことに気付いた彼らが、宿屋の前で手を振っている。 それぞれ重く辛い過去を持った若者たち。だけど彼らは振り向いてばかりいるわけではない。暗くて不安定な未来でもそこに向かって歩み続けている。 忘れてはいけない。しかし囚われてもいけない。 生きている限り、彼らはどこかに向かって歩き続けなければならない。 だから彼らは互いに支えあうのだ。すがるのは形見ではなく、今ここに、隣にいる仲間であるべき。 「ほらよ、それしまって。早く向かわねーとまたグチグチ言われんぞ」 「……………………」 思いがけないゼロスの説教に呆け、ばつが悪そうに目をそらすしいな。傷心の女に少し強く言い過ぎたかと反省しつつも、強引に彼女の手首を掴む。 ……そして仲間であるからには、後ろを振り返らせないように彼女を引っ張る義務もあるはず。 「行くぞ。一人じゃないんだ。勝手な行動するんじゃないって、言うのはいつもお前のほうだろ」 得意の笑みで誘ってみれば、痛々しかったしいなの表情に少し困ったような笑顔が生まれた。 しいなにとって大切な親友、コリンのことについて真面目に書いたのはこれが初めてです。 ごめんよ、コリン。でも君を乗り越えてくれないと、しいながゼロスと仲良くならない気がするんだ。 というわけで、うちのサイトではほぼ出番のないコリンには、常々申し訳ないと思っております。 |
●5 名 ひんやりとした畳の感触が心地よい。うつぶせに手足を広げたゼロスは、頬の位置を微調整して目を閉じた。穏やかでない風が吹く。これから雨が降るかもしれない。メルトキオでの雨は迷惑以外の何者でもないが、このミズホでは雨音や湿った空気もまた風情とされる。自然を大きな心で受け止め楽しもうとする心意気は、見習いたいものである。 「広くないんだから、そんなでかい身体を伸ばされると邪魔だよ」 いったん姿を消していたこの部屋の主が、静かにふすまを引いて再び舞い戻った。部屋の真ん中でゆうゆうとくつろぐゼロスをそうたしなめると、容赦なくその背中を踏んでいく。 「いでっ!」 エビのように背を反らせた男を振り返ることもなく、彼女はさっきと同じように文机に向かうと筆をとった。 ぴんと伸ばされた背筋。独特の墨の匂いが鼻をつく。 仮にも恋人がわざわざ会いに来たという日に、仕事ならともかく文の練習などといういつでもできることを始めるのは、照れ隠しなのか迷惑だというアピールなのか。 慎重に半紙に筆先を落とす彼女の背中を見つめながら、ゼロスはひじをついた両手の上にあごをのせて、なんとかこちらに気を引こうと話しかけた。 「そういやさ、この間、コレットちゃんと大樹の様子を見に行ったわけよ」 もっとくだらない話題を選んでもよかったが、彼女を怒らせるにはまだ早いと判断したゼロスは旅の仲間という共通事項を引き合いに出した。これなら彼女を怒らせないし、適度に興味を引ける。案の定、彼女は振り向いて「へえ」と眉を上げた。 「大きくなってたかい?」 「いんや、まだまだ腰の高さにも届かない。ひょろひょろだぜ。とりあえず水遣りと目立った雑草だけ手入れしてきた」 「ふうん」 わずかに笑顔を浮かべた彼女がそのまま文机に向かってしまいそうだったので、ゼロスは慌てて「そんでさ」と付け加える。右手に持ったままの筆をなんとか下ろさせたい。そして身体ごとこちらを向いてもらって、あわよくば腕の届く範囲まで近づいてもらいたい。 「ロイド君がつけた名前あるだろ。あれをコレットちゃんが何度も呼びかけるんだよ、青い葉を撫でながらさ」 あんなに清純で幼い少女がまるで母親のような表情を浮かべるのだ。それがゼロスには衝撃的で、大いに困惑した。そしてどこか遠い気がした。 まあ、そんな感想まで聞かせるつもりはないのだけれど、きっと彼女なら何かしらの反応を返してくれる。驚くか、笑うか、呆れるか。 どれでもいい。ゼロスとの会話を楽しんでくれるなら。 ところが彼女は文机へ向き直ってしまった。ただし会話をやめるつもりではないらしく、再び向けられた背中から少しくぐもった声が返る。 「そりゃあ、植物だって自分の名前を親しみを込めて呼ばれたら嬉しいだろうさ。名前ってのは個人の証明みたいなもんだろ。名付けが重要な意味を持つのはそういうことじゃないのかい」 「………………………」 意外な返答を聞いたような気がした。目を丸くしたゼロスは、頬杖をやめて身体を起こす。 まさかミズホの民である彼女がそんな意見を持っていようとは。いや、むしろ当然なのか。本名を隠す風習のある里では、名を呼ぶこと自体に何か深い意味があるのかもしれない。 すずりで筆先を整える仕草を追いながら、ゼロスは彼女のあざなを呼んだ。 「しいな」 「なんだい?」 すぐに返る気のない声。相変わらずそっけない背中をもどかしく思って、ゼロスは何度も彼女の名を呼ぶ。そこに最大の愛しさを込めて。 「しいな、しいな」 「だから、なにさ!? 用がないなら呼ぶんじゃないよ!」 愛が届いたのか、うっとうしさに耐え切れなくなったのか、髪を振ってこちらを向いた彼女に、ゼロスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そうだ、この顔が見たかった。怒っていても、笑っていなくてもいい。こちらを見据える気の強い瞳。 「えー、だって愛を込めて名前を呼ばれたら嬉しいんだろ? これもやっぱお前のじいさんが名付けたのか?」 もっと彼女に近づきたくて、畳に四足をついて文机に寄って行く。彼女を足の間に挟むように座ったゼロスは、彼女の手から筆を取り上げてすずりに戻した。抵抗がなかったのは、観念したからかと思いきや、彼女は複雑な愛想笑いを浮かべて静かに首を振った。 「いや、違うよ。あざなは神社の神官が代々のあざなの中から選んで付けたのさ。本名のほうはおじいちゃんがつけてくれたんだけどね」 「…………あ…そう」 暖かかった胸の中が急に冷たくなったような感覚に、彼女を抱こうと上げた腕を目的を変更して文机の縁に力なく置いた。 こんなに近くにいるはずの女が、突然見知らぬ他人のように思えたのだ。 先ほどまで特別だった「しいな」という名の価値が、一瞬で失墜してしまった。 ゼロスがどんなに愛しさを込めて呼んでも、その名は本物ではない。愛のない名付けによって与えられたコードネームのようなものなのだ。 もちろん、彼女がその名を気に入っているのなら、否定するつもりはない。 けれど、彼女の祖父だけが知る本当の名前は、きっとそれよりもっと高い価値がある。彼女の特別にだけ呼ぶことを許された、秘められた名前。 「その名が欲しい」と声にすることは案外簡単なことなのだろう。 しかし、その願望に伴う責任は重い。欲しがるだけではいけない。その先の人生も、切り捨てることのできないしがらみも、何より彼女の気持ちにも、責任を自覚してなおかつそれを果たすことができて、初めて求めることが許される。 だが、今はまだゼロスには足りないものが多い。 ゼロスは苦々しく唇を噛んで俯いた。 文机と腕の拘束の中で、怪訝そうにこちらを見上げるしいなの瞳は澄んでいる。いつもなら真っ先に伸ばされるはずの指は、いつまでも固い文机を掴んだまま動かない。 黙ったままのゼロスに違和感を抱いたのか、しいなは気遣わしげに指先でゼロスに触れた。 「どうしたんだい? 言いたいことがあるなら言いなよ。そんな目で訴えられてもあたしにはわかんないよ」 細い指、心地よい声、困ったような表情。この腕の中の愛しい存在を、全て独占できたらどんなにか満たされるだろう。 ……けれど、まだ。まだ覚悟も、自覚も、実力も足りない。未熟な自分がもどかしくて嫌気が指す。 「何なのかよくわかんないけど、ほら。そんな頼りない顔するんじゃないよ。あたしがここにいるから」 ふわっと首に回される、彼女の暖かな両腕。胸に頬を寄せる彼女の吐息が、ゼロスに途方もない現実を忘れさせる。 それでもほら、彼女に愛されているだけで、自分の価値は跳ね上がるから。もう少し頑張ってみようと思えるのだ。 自分のために、彼女のために。そしてそれがせめて世間に認められるように。 その日が来るまでしばらく、この願望は胸の中にしまっておくべきであるだろう。 漢字1つお題、やっと5つ揃いました。 長さも時間軸もバラバラですみません……。 よろしければ拍手感想なんかもお待ちしています。コメントでお気軽にどうぞ◎ これからもゼロしいと『Nの軌跡』をよろしくお願いします。 |
2008.4.30〜2008.10.17