●1 バレンタインやみ鍋

ゼロス歩けばチョコに当たる。
今日一日をそんな言葉で見事に総括したジーニアスに拍手を送りたい。しいなの身長ほども積み上げられたお菓子や小箱の山を、しいなは唖然として見上げた。
世に言うバレンタインデー。不運にも……いやこの山を築いた女たちにとっては幸運か。どちらにしても、厄介なイベントごとの日だという認識も持たずにメルトキオに寄ってしまったのはうかつだった。

「まったく……あんたのせいでひどい目にあったよ」
しいなは爪のあとが赤く浮き出た胸元を撫でながら、恨みがましくゼロスを睨んだ。
最初は王都の一斉蜂起かと思った。鬼気迫る迫力で彼ら一行を迎えた老若問わぬ女たちは、ゼロスを見つけるや否やプレゼントを突き出して我先にとなだれ込んできた。一時メルトキオは大混乱。もちろんそばにいた仲間たちももみくちゃにされ、被害を被ったわけで。
「大丈夫か、しいな。俺さまが丁寧に消毒してやろーか」
下品な笑みを浮かべながら胸元に手を這わすセクハラ男に、容赦ない鉄拳を振り下ろす。
「謹んで遠慮しておくよ」
「しーいなー。慎むならもっと優しく遠慮してくれよ。危うく舌噛むとこだったんだけど」
「そのままくたばっちまえ」
「ひどーい」
脳天を抱えてぶーたれるゼロスにもう相手にしていられないと、しいなは改めて山を見上げた。

何百もの女性たちの想いの形。それをこんなふうに無造作に一まとめにしてしまうことになんだか罪悪感を覚えて、しいなは肩をすくめながら単純な疑問を声に出した。
「こんなにたくさんどうすんだい?」
「さあて、どうっすかねー?」
まるで他人事のように答えながら、当の本人はプレゼントに添えられた手紙やメッセージだけを選んで、だるそうにそれらをぱらぱらと見ていた。およそ真剣とは言えない態度に、いっそ腹が立つ。こいつがモテようが嫌われようがどうでもいいが、一生懸命気持ちをこめて贈られたものを無碍にするのはよくない。
「これだけの量、全部食べ切れないだろ?」
「そりゃー無理でしょーよ」
「いいなー。じゃあ、オレにも分けてくれよゼロス」
投げやりな返答を聞いて、コレットやリフィル、もちろんしいなからもしっかりチョコレートをゲットしたはずのロイドが、ちゃっかりおこぼれに預かろうと手を伸ばした。それもあまり気分のいいものではないが、合理的だろうと苦笑したしいなの目の前で、ロイドの手は思いがけずゼロスに払われる。
「ダメダメ、あげねーよハニー」
「ええ! なんでだよゼロス。食べきれないって言ったじゃんか。独り占めか?」
「そうだよ、何が不満なんだい?」
ゼロスは他人に分けることを惜しむほど卑しいやつではない。ロイドもしいなもさっぱりわけがわからないと言うようにゼロスを見上げると、妙なところに力の入った皮肉な笑みを浮かべてゼロスが弁解した。
「まー何も問題がなければあげたっていいんだけどよ、中に何が入ってるかわかったもんじゃねーし。特に手作りなんてもんは信用できないからなー」
そう言って、彼は有能な執事を呼ぶと山になった想いの小箱を片付けさせた。その行く末は間違いなくゴミ箱だろう。

運ばれていく贈り物の山に見向きもしないゼロスに、しいなはふつふつと怒りがこみ上げる。
あんな男に夢中になるなんて、趣味を疑いたくなるような連中だけど、あの小さな箱にこめられた思いは簡単に否定できるものではないはずだ。たとえ想いの終着点であるゼロスであっても。
「……アンタ、さいってーだね!!」
怒りは声に表れたのに、さっきみたいに気軽に殴ることがなぜかできなかった。
他人事じゃないからだ。イベントに乗じてチョコレートを作ってしまった女たちの気持ちがわかるから、怒りだけを向けられない。心のどこかが彼女たちの気持ちを代弁するように鋭く痛んだ。
「…………アホ神子!」
殴る代わりに震える手でそばにあったクッションを掴むと、相対する複雑な感情をこめて投げつける。
「あで! ……っにすんだよ、しいな」
どうやら顔面で受け止めたらしいゼロスの、くぐもった抗議の声が聞こえてきたが振り返ることはしなかった。怒りのまま、ゼロスの私室のドアを閉めて、その足で妙な匂いの漂ってくる厨房を目指す。
厨房の冷蔵庫でラッピングを待っている最後の義理チョコの存在が急に気になったのだ。

「リフィル!」
「あら、なぁにしいな? まだ夕飯はできないわよ」
料理下手を設備不足のせいだと責任転嫁して、ワイルダー家の立派な厨房で改めて挑戦をしていたリフィルが、しいなの剣幕に驚いて振り返る。彼女の前にはどどめ色の得体の知れない鍋。唯一の得意料理だと主張する、リフィル特製やみ鍋が、本日最大の試練……もといディナーのようだった。
正体不明の食材が鍋からはみ出していても、もうしいなは驚かなかった。
「リフィル、だしはとったのかい?」
「だし? そうね。鍋といったらだしは重要よね」
「だったら、これを使っとくれ」
しいなは冷蔵庫からあの男にあげるはずだった最後の義理チョコを、なんの躊躇もなく鍋の中に落とした。熱せられた鍋汁に哀れなチョコレートはみるみる小さくなっていく。

女たちの強い想い。ゼロスの警戒。しいなの気まぐれ。
それらが全部反することなく一つになれればいいのに。

徐々に姿をなくしていく光景を見つめながら、しいなは冷えた心でそう願った。全て解けきるころにはもう鍋の色は真っ黒なやみ色に染まっていた。



つながっているかもしれない拍手5つ。
まずは一つ目バレンタインです。信用できないゼロスと信用されないハニーたち。
でも手紙はきちんと読むあたり、ゼロスにも良心はあるのです。

●2 風邪ホットゆず

夢を見ていた。冷たくて薄い手のひらが、戸惑いながら頬に触れ、額に触れ、離れていく。
行かないで、と夢の中の自分が言った。伸ばした手は今よりずっと小さな幼い手だった。
慣れているようで、知らない感触。あれは誰だったんだろう。


目が覚めると見慣れぬ天井。旅を始めてからそんなことは珍しくない。ただそれ以外にいつもと違ったのは、背筋を駆け抜けた悪寒と、倦怠するだるさ。そして体中をボンヤリと支配する熱っぽさだ。
どうやら体内で暴走中の風邪菌は、まだまだ居座るつもりらしい。すっかり汗まみれになってしまった首筋を撫でながら、ゼロスは熱のこもった息を吐いた。
とりあえず柔らかいベッドで休めていることは幸いだろう。自身が寝返りを打つ衣擦れの音だけが響く部屋の中で、孤独を慰める言い訳としてそんなことを思った。

「うつるから近寄っちゃダメよ」
もっともではあるのだが、あんまりなリフィルの隔離令を、仲間たちはしっかりと守っているらしい。夕食後、早々に個人部屋に押し込められた後は、誰一人ゼロスの様子を見に来る者はいなかった。ずっと隣から聞こえていたにぎやかな声も今では静まり返っている。
寝てしまったということは、それこそ朝まで、誰もゼロスを心配して訪れてくれるはずはないのだ。
「ちくしょー……薄情者ぉ……」
呟いた声はかすれて乾いている。汗をかいた分だけ水分補給が必要だが、あいにくそばに置かれていた水差しはすでに空っぽだった。

風邪をひくと心も弱るのだろうか。いつもならなんてことない一人きりの空間が、異様に恐ろしい。
物音一つしない部屋。答えの返らない呟き。まるで母の部屋みたいだ。ゼロスは毛布を頭までかぶると、ふと浮かんだ母親の影を散らそうときつく目をつぶった。
そのときだった。
「ゼロス……?」
不意に声が聞こえて部屋の空気がかき乱された。かぶった毛布を押し下げると、足元の向こう、部屋の扉が半分ほど開けられ、そこから髪をおろしたしいなの顔がのぞいている。
暗い視界の中、彼女の白い肌だけが浮き上がって見えた。
「……しいな?」
「なんだ、起きてるんだ」
「ん、ああ……」
言うなり、再び扉を閉めてしまう。足音は静かに遠ざかっていった。
「な……なんだ?」
意図のわからない行動。彼女は真夜中にわざわざなんのためにゼロスの部屋をのぞきにきたのだろうか。瞬きをしてみても、去ってしまった彼女の行動の理由がわかるわけではない。

しかし、そんなことは彼にとっては重要ではなかった。
様子を見に来てくれた。ただそれだけが嬉しくて、ゼロスはおもむろに起き上がると、目に焼きついた白い肌の痕跡を求めるようにじっと扉を見つめた。
やがて、足音が戻ってきた。部屋の前で止まったそれは、周囲を配慮した囁き声で彼に呼びかける。
「ゼロス、入るよ」
そして再び現れたしいなは、今度こそ扉をすり抜けてゼロスのベッドまで近づいた。その右手には湯気の立つマグカップ。
きょとんとそれを見つめるゼロスにカップを手渡すと、彼女はベッド脇に腰掛けて薄く笑った。
「ハチミツをお湯で溶いたんだ。刻みゆずで香り付けしてね。のどにいいから飲んで」
湯気からただよう爽やかで優しい柑橘の香り。促されるまま、口をつけると、甘酸っぱい幸せな味が口内に満たされた。
乾いていた喉をいたわるようにすべっていくそれを飲み込んで視線をあげると、まっすぐにこちらを見つめる瞳とぶつかる。一瞬睨まれているのかと誤解したが、その直線的な視線の意味は心配なのだと気付き、ゼロスはうっと言葉に詰まった。

見放されているのだと思っていた。寒い日が続くとはいえ、油断して風邪をひいた怠慢な自分を責めているのだと思っていた。
現に彼女はゼロスがリフィルに隔離令をくらってから、とぼとぼと部屋へ戻るまでの間に一言も労わりの声をかけてくれなかった。呆れたようにため息をついて、見送っていただけだったから。
それなのに、深夜にわざわざゼロスのために飲み物を用意してくれた。一人で風邪と戦う彼を心配してくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、ゼロスは落ち着かなく身じろぎを繰り返した。
普段はあまりにつれないくせに、どうしてこういう時に彼女は優しいのだろう。本当にそれが欲しいとき、しいなは当たり前のように与えてくれる。
そんなふうに甘やかされると、それを失うのが怖かった。いつまた一人残されるのかが気になって仕方ない。幸福に現実を忘れられないのも、彼の損な気質だった。

「……いつまでいんの?」
まず間違いなく誤解を呼ぶ言い方に、一瞬しいなは眉を寄せた。しかしそれはすぐに緩められる。ゼロスの声がひどく不安げで、まるで子どものようだったからかもしれない。
「いちゃ悪いのかい?」
「だって風邪、うつるんじゃねーの?」
「そう長居はしないさ。飲み終わったら戻るよ。あんたも寝ないと治らないんだからね」
「……ああ」
しいなの返事を得て、ゼロスはほっと白い息を吐き出した。少なくとも、これを飲み終わるまでは彼女は手の届くその場所にいてくれるのだ。しいなに気付かれないように、かすかに笑ったゼロスはいつもよりだいぶ時間をかけて優しさをすすった。


風邪ひくと心も弱りますよね…。
冬になると出るゆずのレモネードみたいなのが大好きです。
あれ飲むとほっとするー…。

●3 乙女と花風呂

「しいな、はいこれ」
木枯らしが吹いた寒い夜。明日の予定のミーティングを終え、それぞれの自室に帰ろうと立ち上がったところで呼び止められた。振り返れば、満面の笑みのゼロス・ワイルダー。
彼は紙袋をぶら下げた右腕を突き出して、もう一度「はい」と繰り返した。
「はい……ってなんだい?」
先日、風邪をひいたゼロスに柄にもなく優しくしてしまってから、彼はやたらとしいなに甘えてくるようになった。もちろん、調子づかせるのも面白くないし、なにより面倒くさいのでろくに相手をしていないが、それでも確実に彼にとっての自分の存在が変わったらしい。
うさんくさそうに見上げるしいなの手に強引に紙袋を持たせると、ゼロスは満足げに笑った。
「やる。まー、あれだ。あのあまーい夜のお礼」
「さあ、そんな夜は知らないね」
「あれ、そんなつれないこと言っちゃうの? 俺さまあん時、すっごく感動しちゃったんだけど」
「熱に浮かされて夢でも見たんじゃないのかい」
「なんだ、やっぱりわかってんじゃん」
熱、という単語がそのまま彼のいう夜を示してしまったことに気付き、しいなは失態に顔をしかめた。
「まあまあ。とにかくもらえるもんはもらっとけや」
「そんじゃ、ありがたくいただいとくけど、そもそもコレ、なんだい?」
紙袋の中をのぞくと、褐色の小瓶と、同じような色の丸いこぶし大のカプセルが入っている。どちらも用途がわからず首を傾げると、ゼロスは得意げに説明を始めた。
「こっちの瓶がバスオイルだ。浴槽に何滴か垂らしてみ。リラックスできるぜ。お疲れのしいなに癒しの時間を……てな」
「このカプセルは?」
「そっちも風呂の中に入れてみろよ。どうなるのかは見てのお楽しみ」
「ふーん……」
なにやらやたら楽しげな様子が気になるが、純粋にバスオイルというものに興味が湧いた。自分ではそんな嗜好品を買うことはまずないから、この機会に試してみるのもいいだろう。

しいなは頷いて礼を言った。そのまま就寝の挨拶につなげて部屋へ戻ると、少し弾んだ足取りで浴槽に湯を張る。浴室の窓ガラスが冷たい風にガタガタと鳴るのに、肌をさすりながら、すっかり乗せられてしまった自分に今さら気がついた。
さすが自他共に認める遊び人である。どうしたら喜ぶのか、あまたの経験から導き出される答えはほぼ正解に等しい。自分もその一人になってしまうのは、まるで罠にはまるようで悔しいのだが、気の利いたプレゼントが嬉しいのも正直な気持ちで、しいなは複雑な矛盾を抱きながら湯気のたつ水面に数滴バスオイルを落とした。
瞬間、湯気のこもる浴室にぱぁっと花が咲く。匂いにはあまり詳しくはないが、たぶんこれはラベンダーの香り。精神を鎮める効果があると聞いたことがある。
適度な湯加減と安らかな香りが確かに心地良いと、浴槽に体を浸しながらしいなは深く息を吸った。

正直なところ、あの男がモテる理由がわからないわけじゃない。容姿はもちろん、仕草とか、ちょっとした気遣いとか、細かいところをフォローしてくれるのは、女性にとって魅力的であることは確かだ。
だけれど、長年築いてきた関係や二人の間の雰囲気はそんな甘いものではなくて、今さらその方向へ向きを変えるのもあまりに不自然すぎる。いつものようにふざけてケンカして曖昧に濁しているほうが、よっぽど安定していて心地よいと思うのだ。
それはもしかしたら、変わってしまうことへの恐怖なのかもしれない。

「やだやだ。なに考えてるんだか!」
自身の思考の方向に、はっと我に返ったしいなは、自分をごまかすように浴槽の向こうに手を伸ばした。もう一つ、ゼロスからもらった謎のカプセルの存在を思い出したのだ。
透明のカプセルの中に褐色の何かを潰したような丸いものが入っている。そのまま湯の中に入れる、と聞いたが、いったい何が起こるのだろう。
しいなは恐る恐るカプセルを湯に浮かべた。暖かな液体に触れたそれはゆるゆると溶けて、外側の透明な膜が破ける。中から広がったのは、ドライフラワーだった。
「わぁ……」
少しくすんだ赤や黄色の花が水分を吸収して咲いていく。あっというまに、湯船は花に埋め尽くされた。
まるで貴族の湯浴みのようだ。贅沢で豪華で、少しだけ夢見ていたシチュエーションに、しいなは高揚する心を押しとどめるように鼻まで湯にもぐった。

「ほんとに……くやしいねえ」

周到に仕掛けられたゼロスの罠。うっかりそれにはまってしまった自分。変わっていこうとする自分。
変化は怖いけれど、同時にそれはとてもわくわくするものかもしれない。不可思議な思いを抱きながら、しいなは深く息を吸い込んだ。


しいなは乙女ですから! たぶんこういうの好きだろうなぁ。
私も泡風呂が大好きです。
バスソルトとかやたら変なのいれて、家族に大ブーイングくらいます(笑)

●4 折り紙ひなまつり

よく言えば質素倹約素朴な雰囲気が魅力ともいえる、地味な集落ミズホ。シルヴァラントともテセアラとも違う、独特の文化を築いてきたこの地域では、春夏秋冬に限らず古くから続いてきた伝統的な祭典が多い。
春の気配が見え始めたミズホの里は、ちょうど「ももの祭り」と呼ばれる華やかな行事を迎えていた。

「ももの祭りっていうのはね、雛祭りとも言うんだ。未婚の女子の健康と幸福を祈って、甘酒を飲んで、ももの花を愛でて、お雛様をお披露目するんだよ」
仲間たちを先導しながら、そんな注釈を付け加えたしいなは、心なしかうきうきした様子で里の中を案内する。色とりどりの飾り付けや、にぎやかな雅楽の音に、いつもは地味な里が華やいで見えた。
「しいなー、オヒナサマってなあに?」
小走りでしいなに並んだコレットが、彼女を見上げて首を傾げる。女の子の祭りと聞いて興味がわいたのだろう。横顔がきらきらと輝いていた。
「ああ、お雛さまっていうのはね、人形のことさ。ミズホでは女の子がいる家はこの祭りに合わせて飾るんだよ。人形に無病息災、身体健全の祈りをこめてね」
「じゃあ、しいなのうちにもあるの? もっと近くで見たいな」
無邪気なコレットの質問に、しいなはわずかに困ったように眉を下げて笑った。不器用な笑み。彼女は時々こんな表情をみせる。それでうまく取り繕えていると思っているのかは知らないけれど。
「残念だけどうちにはないんだ。でも、どこのうちでも見せてもらえるはずだからさ、気軽に頼んでみなよ」
申し訳なさそうに「ごめんね」と笑うしいなが痛々しかった。
雛人形が与えられなかった理由はいくつか憶測できる。彼女も他のメンバーに負けず劣らず複雑な出自と過去を持っているから、それは仕方のないことかもしれない。
「行こうか」
歩を早めて宿へ向かう後ろ姿に、幼き日の寂しさと遠慮と必死の我慢が見えるようで、ゼロスは苦々しく肩をすくめた。


探索班と補給待機班。ガオラキアに近いこの里は、別行動を取るときに勝手がいい。ロイド率いる探索班にしいな、リフィル、リーガルが伴い、残されたゼロスとお子様組はミズホ内での物資補給を任された。
効率を上げるためにミズホ残留組を二手に分けて、ゼロスはジーニアスとともに食材アイテムなどの消耗品を補った。できれば食材店で以前しいなが作ってくれたゆずも入手したかったのだが、残念ながら季節遅れだったらしい。それでも大量の荷物を抱えて宿へ戻ると、すでに帰ってきていたらしいコレットとプレセアがこちらの姿を見つけて手を挙げた。

「おかえりなさい、ゼロスくん、ジーニアス」
「ねえ、見て見て! とっても素敵なお雛さまだよ!」
客室のほうではなく、わざわざロビーで待っていた理由がこれらしい。ゼロスはフロント横に飾られた七段飾りの立派な雛壇を見上げて感嘆した。
「へー、ミズホの細工技術もなかなかだな」
「ホント、姉さんが見たらあの病気を発症しそうだよ……」
少女たちが腰掛ける文机のそばに荷物を置いて改めて観賞すると、そこへ並べられた人形は精巧に緻密によくできている。最上段の親王はもとより、下段の道具は細部に至るまで丁寧に鮮やかに作り上げられていた。
当然値が張るものだろう。幼いしいなが安易にねだれるものではないことは確かだった。

「気に入っていただけましたか?」
宿泊客へのサービスらしい茶を盆に載せて、この宿の女将が現れた。三十路の手前。もしかしたら若女将のほうかもしれない。習慣として口説きにかかろうとしたところを、ジーニアスに手の甲をつねられた。
「まったく、油断もすきもないんだから。しいなに言いつけるよ!」
「あ、あ。それは待て、な? まだ未遂だから」
ミズホの女にはちょっかいを出すなときつく言いつけられたのだ。「はいはい」と適当な返事を返してしまったが、ここに小うるさい監視がいる手前、隙をつくこともできない。
「くっそー、ガキんちょめ」
うなるように呟くと、足元から幼い声がはじけた。
「がきんちょってなに?」
「へ? あれ、お嬢ちゃん」
どうやら若女将の娘らしい。五歳前後の女の子が、ゼロスを不思議そうに見上げていた。さすがに母親の前ではばつが悪いので、「なんでもない」と首を振ると、幸いにも少女の興味はすぐコレットの発言に移ってくれた。

「立派なお雛さまですね」
「ありがとうございます。どうぞよくご覧になってください」
「おひなさま、まいのおひなさまなのー。まいおよめさんになるのー」
「およめさん?」
少女の口から飛び出した単語にプレセアが首を傾げる。きょとんとする四人の異邦人に若女将は苦笑して娘の頭を撫でながら説明を加えた。 「雛人形は昔の婚礼の儀式を模したものなんです。雛祭りが終われば片付けるのですが、これが遅いとその女子が嫁に行き遅れるという迷信があるのです。夫が冗談で話していたのを聞いていたのですね」
「へー、なるほどねー」
ならばなおさら、雛人形を買い与えられなかった幼き日のしいなはみじめな思いをしたことだろう。気のない風を装っても、パーティ内でもっとも結婚や恋愛や、そういうロマンチックなものに憧れるのはしいなだ。

「まいちゃんいいね、私も欲しいな」
こどもをあやすためだろう。あまり本気とは思えない羨みの言葉をコレットが呟くと、少女は「ちょっとまってて」と言い残してフロントの奥に消えた。やがて両手いっぱいに色とりどりの紙を持って再び走り寄ってくると、少女は文机の上にそれを広げた。
「まいね、おりがみじょうずなの。おひなさまもつくれるよ」
「紙でオヒナサマが作れるのですか?」
「できるよー。まいおねえちゃんたちにおしえてあげる」
たどたどしい手つきで紙を折り始めた少女を見下ろしながら若女将に視線で問うと、彼女は再び雛壇を示した。赤い敷き布がかけられた立派なそれの隣に、ちょこんといびつな折り紙が並べられている。言われて見れば、親王飾りに見えないこともなかった。
「へえ、あれならいいな!」
ゼロスは微笑ましく思って呟くと、文机に向かう少女たちの輪に割り込んだ。
「俺さまにも教えてー」
「えーおにいちゃんおとこでしょー?」
「いいじゃん、教えてよまいちゃん」
「しょーがないなー」
口をとがらせつつ、まんざらでもないらしい少女に顔をつき合わせた三人が笑った。置いてきぼりを食わされたジーニアスが困ったように上から覗いてくるのにさらに声をあげて笑って、ゼロスは紫色の紙を半分に折る。雄雛のぶんとして赤色の紙もキープしておいた。

過ぎてしまった時間はもう戻らない。彼女が感じた引け目やみじめさを取り除くこともできない。
けれど今からでも間に合うことはあるはずだ。
彼女の健康と、幸せな嫁入りを祈って、ゼロスは紙を折る。
ちゃちな雛人形を渡したときの彼女の顔を想像すると、ゼロスはこみ上げる笑いを抑えることはできなかった。



ゼロスはなんだかんだでしいなに甘い。
うちにも七段飾りのお雛さまがあります。毎年片付けるのが4月直前なので行き遅れるかもなー。
ちなみにどうしても片付けられないときは人形を後ろ向きにするといいらしいです。

●5 卒業

木漏れ日に暖かさが増すと、人々が待ち望んだ再生の季節。それは同時に何かが終わる季節でもある。
歴史をひっくり返した世界統合が成功し、徐々に混乱が落ち着いてきた頃、しいなはゼロスと並んで歩いていた。それぞれの地に戻ってしまったかつての仲間たちはいない。
再生が始まる前のいつかの季節と同じだった。

サイバックの春は慌しい。この大混乱の中でも無事卒業にこぎつけた学生たちは、別れと新たな始まりに浮き足立っている。行き交う人々の表情も、笑顔だったり泣き顔だったり怒っていたり、がっかりしていたりとまるで一定しない。もちろん個々人の感情に統一性なんてあるはずもないが、この時期のこの町はそれが至って顕著だ。
そんな場所をこうして二人並んで歩くのは、ひどく居心地が悪いとしいなは思った。
いつもだったら無駄に口だけは回るゼロスも、なぜか今日は口数が少ない。それがさらに不気味に思えて、しいなはもうずいぶん長いこと奇妙な緊張感を抱き続けていた。
もともと、「会おう」と誘ってきたのはゼロスのほうなのだ。仕事の関係でしょっちゅう顔を合わせているにもかかわらず、何を改まってとしいなは笑ったが、ゼロスは真剣にこちらの返答を待っている様子だったから、うかつにも頷いてしまった。

ゼロスは何を考えているのだろう。以前から底の読めない男だったが、今日はさらに謎めいている。いいかげん推測することにも限界を感じて、イライラし始めたところで、ゼロスはふと立ち止まった。
自由に立ち入りのできる学問所の中庭。なんという名だろうか、深緑色が美しい大木の前でこちらを振り返ったゼロスは、いつものへらへら笑いを浮かべてはいなかった。
「しいな」
「……なんだい、そんな深刻な顔して」
彼の真面目な顔などめったに見られるものではない。嫌な予感がしてしいなは眉を歪めた。

何かが変わってしまう、そんな気がした。
いつからか、しいなは変化が怖いと思うようになっていた。それはコリンを亡くしたときだったか、くちなわに裏切られたときだったか、はたまた再生を終えたときだったか、よく覚えていない。
けれど居心地のいい場所であればあるほど、それが変わってしまうことがとても恐ろしかった。いつまでもこのままでいたい。永遠にとは言わないから、せめて続く限りずっと。
それは愚かなことかもしれない。変化しない人間とはつまり成長しない人間と同義であるから。
それでも。
せめて彼とだけは不安定で安定した居心地のいいこの関係を続けていきたいと思っているのに。

深く息を吸い込んでゆっくり吐き出したゼロスは、戸惑うしいなの瞳を見つめて低い声で切り出した。
「なあ、俺たちもそろそろ卒業しないか?」
「…………………っ」
卒業。
嫌な言葉だ。それはそのまま別れを指す言葉ではないか。
特にはっきりとした約束を交わしたわけではない。触れられた覚えもなければ、触れたこともない。接触のない二人の曖昧な関係。
それすらもゼロスは切り捨てたいほどしいなにうんざりしたというのか。
しいなはため息をついた。顔を上げることはできない。瞳の奥が熱くなるのをなんとかこらえるのに精一杯だ。
瞬きを繰り返して泣き出しそうな衝動をこらえると、しいなは気だるげに口を開いた。
「…………そうかい。それじゃあ、あんたともこれで最後だね」
ああ、だめだ。声が震えてしまった。
変わりたくなんかない。けれど確実に変わっていたのだ。不確かなやりとりの中で、しいなが抱いたゼロスへの感情。ゼロスが見つけたしいなへの感情。
それは今向き合わないまま、消滅しようとしていた。

もう耐えられないとばかりにきびすを返したしいなの腕を、ゼロスが強く引いた。
「ちょ、ちょい待てって! 最後ってなんだよそりゃ!」
「……え?」
何かがおかしい。ゼロスの声が焦っている。しいなは思わず振り返った。声と同様に目を丸くして驚いているゼロスの顔が視界に写った。
「どういう……こと?」
「こっちが聞きたいってーの。何が最後なわけ? 俺さまと会うのが? 泣きそうな声して言うのおかしくない?」
「だって、あんた今卒業って……」
互いに目を瞬かせて見つめ合った後、先に吹き出したのはゼロスのほうだった。しいなの腕を掴んだまま、肩を震わせて笑う。
「なんだよ、せっかく人がムードを意識してわざわざこんなところまで連れてきたってのに……、ホントお前って鈍感」
「な、何が鈍感だい! あんたの言ってることのほうがワケわかんないんだよ!」
「あー、まあ、それでこそしいなだよな。ほんと、手放せないわ」
「褒めてんのかけなしてんのかはっきりしな! 誰が手放せ……」

前のめりになって勝てない口げんかに挑んでいたしいなの頬が、突然朱に染まった。不自然に口を開けたまま、ゼロスを見上げる。その様がますますお気に召したのか、ゼロスは盛大に腹を抱えて笑いだした。
「うひゃひゃひゃひゃ! もうホントマジで飽きないわ、しいな」
「な、な、何の話……」
「卒業の話。でもお前に確認なんてとるのやめた。どーせ、しいなのことだから自分から動けるはずなんかないだろうしな。だったら俺さまが引っ張って行くしかないわけだ」
先ほどまでの気味が悪いほど真剣な表情はどこへ消えてしまったのやら。すっかりしいなの知るいつもどおりのゼロスが目の前で笑っていて、呆然と彼を見上げた。
いまいち話が見えない。ゼロスの発した卒業という言葉は別れという意味ではないらしい。では何からの卒業?

「しいな」
ゼロスは一度しいなの腕を離すとその腕で頭上の大木を示した。
「学問所では有名なジンクスがあんのよ。この木の下でさ、愛の告白すると叶っちゃうーなんてうさんくさい迷信。でもさ、一応俺さまこの学問所で過ごしたし、もしこの木にそんな力があるってんならそれを貸してくんないかなーって思ったわけ」
珍しい。迷信に詳しいくせにそれをはなから信じようとしないこの男が、どういう風の吹き回しだろう。
目を細めたしいなの腰に、ゼロスは隙をつくように腕を回した。勢いで倒れこんだ胸の中で、ゼロスの心音は早鐘を打っている。ますます珍しい。ゼロスは緊張しているのだ。
そちらへ気を取られていたから、背中にも回されたゼロスの腕がしいなを抱き込もうとしたときには、すでに抵抗する余地はなかった。

「宣言しまーす。俺さまこれからしいなを俺さまの一番にする。そうなるからには今までみたいに曖昧にお茶を濁すような付き合いじゃないぜ。本格的にしいなを攻めさせてもらうからな」
「ななななにそれ、意味わかんないよ!」
「わかんなくないでしょ?」
「う、あ……あんたの言うことなんか信用できない」
「おうよ、別に信用しなくてもいいぜー。それで後悔すんのはしいなちゃんのほうだからなー」
「っ!!」
顔から火が出そうだ。抗議の言葉は何一つ声にならなくて、ただゼロスの腕の強さに任せるまま、しいなは俯いていた。
やがておとなしくなったしいなの頬にゼロスの両手が添えられた。青灰の瞳が何かを企むように細くなっている。しいなの心臓もゼロスに負けず劣らず速さを競った。
触れられたことのなかった頬、触れることのなかった唇。
あんなに変化を嫌っていたのに、しいなはわりとあっさりとそれを受け入れてしまった。

本当に怖かったのはなんだったのか。
変わってしまうこと。成長しなければならないこと。
けれどもしかしたら、踏み出すための第一歩への勇気が足りなかっただけかもしれない。
ゼロスの唇を受け入れながら、変化も悪いものではないと、しいなは微笑んだ。


一番反応が多かった話。
キスシーンを書くのは珍しいので、なんだかやたら恥ずかしいです。




2008.2.1〜2008.4.29