足音を隠そうともせず近寄った気配に、腰の剣を握った。
月光に長く伸びた影が奇妙に揺れる。不自然な内股歩きだ。本来正常であったものをわざと歪めて体得した癖であるのだろう。
けなげな努力と褒めるべきか、不気味な矯正だとけなすべきか。
結局どちらも決めかねて立ち止まった背中に、舌足らずな女の声がかけられた。

「こんばんは、神子サマ」
男を誘う甘い蜜のような響きの中に、ひっそりと隠された猛毒。ゼロスは顔にかかる髪を払う仕草の延長で振り返った。
「今日は奇襲じゃねーの?」
「ワンパターンじゃ芸がないでしょ?」
より高く甘くたゆたう声音。砂色の髪を揺らして傾ける首の角度。
緻密に計算されたそれらの誘いが無害な女のものなら、喜んで乗ってしまうところだけれど。

(サドのアリス、ねぇ……)
こみ上げた嫌悪感を隠そうともせず、ゼロスは頬を歪めた。
互いに生まれ持った気質ゆえに、たぶん決して馴れ合うことはできない。たとえわかりあうことができたとしても、そこには必ず反発が生まれるだろう。
同族嫌悪の典型とも言える存在に、憎しみとも憐れみともつかない視線を向けると、アリスは白々しく笑った。

「あら、お気に召さなかった?」
「いつもの熱烈なアタックもなかなかスリルがあって楽しいんでね。今夜はちょっと拍子抜けー」
「そうなの、残念。じゃ、次回からはご期待に沿うことにするわ」
言ってアリスはちらりとなめるようにゼロスの胸元を見た。紅く存在を誇示するエクスフィアの輝きに、陶酔するように目を細める。
「いいなー、それ」
「ねだったってやらねーもんはやらねーんだよ」
「ぶー、ケチ!」
子どものように地団太を踏んで頬を膨らませたアリスは、その割りにちっとも悔しそうではない。宝珠の奪取に無気力なのは、今回の目的が宝珠とは違うところにあるからか。ならば何を狙っているのかといぶかるゼロスが警戒を強めると、エクスフィアから視線をそらしたアリスがふと呟いた。
「ふーん、なんだかんだ言って気に入ってるわけね」
嘲るように言って、再び、今度は挑戦的に視線をからめてくる。そしてそのまま話の続きのように唐突にある女の名を口にした。

「藤林しいな、だっけ?」
「…………しいな?」
「そ。アリスちゃんね、この前その人に会ったの」
「ふーん……」
「とってもおバカで可愛い人」
「……………………」
わざわざゼロスの反応をうかがうように一言ずつ言葉を区切る。まるで言葉で刻んでいたぶられているような感覚を覚えながら、ゼロスは愛らしい少女の顔をにらみつけた。
「それで?」
その反応にたいそう満足したのか、アリスは「うふふっ」と甲高い笑いを漏らす。こうも的確に人の神経を逆なでできる女も珍しい。ある意味感心しながらため息をつくと、アリスの蜂蜜色の瞳がきゅっと釣りあがった。とろりと甘い残忍な笑み。
「私、あの人気に入っちゃった」

月夜が静かにゼロスの心を波立たせる。
アリスの言葉に本意などない。ゼロスの弱みを掴んだ気になってからかいたいだけだ。そんなお遊びに付き合うだけ無駄だとわかっているのに、どうしても主張せずにはいられなかった。
「あれは俺さまのお気に入りなのよ。ねだったってやんねーよ」
しばらく見ていない彼女の顔を思い出す。ゼロスの発言にいちいち律儀に感情を返す単純な構造。あの一つ一つに覚えるのは、特別な想いだけじゃない。もっと根本的な関係がもたらす欲だ。

「なによーぅ。宝珠も、おもちゃも一人占めなんてずるいじゃない」
そう口をとがらせるアリスに額がつくほど近づいて、ゼロスは青い瞳を細めた。
彼らは決して馴れ合うことはないが、共感できる部分がある。わざわざ念を押すまでもないかもしれないが。
「あんたも自分の嗜好を振り返ってみればわかんじゃないの? サディストってのは誰しも“唯一”を持ってんだよ」
きっと彼女にとってのそれがあるように、ゼロスにとって彼女だけが譲ることの出来ない唯一なのだ。


Sの唯一




 タイトルはあの漫画から失礼しました。
 ゼロスはSだと信じて疑いません。精神的なS。しいなは無論Mです。
 アリスはもしかしたら、誰に対しても絶対的なSかもしれないけど、でもほら3Kの人は特別だったわけだし。
 ゼロスとアリスの組み合わせは面白そうだなーと思います。