唇にひきつれた痛みが走った。顔をしかめ指先で触れてみると、わずかな血痕。少し力んだ瞬間に、切れてしまったらしい。
「痛ぇな……」
気だるげにそう呟いたゼロスは、うつろな瞳を書面に落とした。
このところ、メルトキオにかつてない厳しい寒気が流れ込んでいるらしい。窓の外を吹く風は冷たく乾き、道行く人の肌を容赦なく切りつける。屋内にいても、忍び寄る冷気からは逃れられず、ゼロスの執務室でも朝から絶えず暖炉の火が盛衰を繰り返しながら燃えていた。
だから部屋の温度はとても心地いいのだが、問題は空気がひどく乾燥してしまうこと。
かさかさした指先ではうまく書類をめくることも出来ず、さきほどからゼロスはやや苛立ちを覚えていた。

明日までに目を通し、回答を考えなければならない文書はあと2箱も残っている。だが、夕方からは会合の予定が入っているし、深夜から再開したとしても最低限の睡眠はとらなければ、明日からの視察に差し障るだろう。
頭の中で組み立てられる隙のないスケジュールはゼロスをいよいよ追いつめた。
前を見ても後ろを見ても、愛想のない仕事ばかり。それが義務だとわかっていても、まるで仕事のために生きているような気がして嫌気が差す。

乾いているのは、環境だけではない。潤いを求めてあえいでいるのは、ゼロスの心。
ふと恋しい人の顔が浮かんだ。あいつとはもうどのくらい顔を合わせていないだろう。自分を呼ぶぶっきらぼうな声すら思い出せないことに気がついて、やや焦る。
ほらやっぱり、自分は渇ききってしまっている。このまま耐えていたら、いずれしなびて枯れてしまうに違いない。
窓辺に見えるへたれた花に、他人事ではない危機感を感じ、ゼロスは決めた。
明日こそ、あいつに会いに行こう。早めに出れば、視察の前にミズホに寄るくらい出来るはず。一目でいい、あの瞳を見て、声が聞ければ十分だ。そのささやかな願いのためには、なおさら、迅速に書類を片付ける必要があった。

「よし、やるか」
だらしなくもたれていた背を伸ばし、厚い書束と向き合う。
明日の潤いを思えば、途切れていた集中力も復活した。扉の向こうの使用人の呼びかけにも答えず、ひたすら書面の文字を追う。
他のことにかまっている時間さえ惜しい。
だからゼロスは、無遠慮なノックと共に来客が訪れても、顔すら上げようとはしなかった。
「あのー、ちょっと……」
「今、手が離せない」
「………………」
ためらいがちな呼びかけもすっぱり遮って、書面に没頭する。聞き覚えのある女の声だったが、屋敷のメイドだろうとしか思わなかった。

女の気配は机の前でピタと止まる。
そういえば、紅茶のカップはずいぶん前に空になっていた。ワイルダー家の使用人はそれくらいのことであれば、言わずとも察っしてくれるだろう。切れて不快な唇も、飲み物で潤せばましになるかもしれない。
ところが、いつまでたっても女は立ち去らなかった。それどころか、正面からじっと主人をぶしつけに見下ろす。さすがに不審に思って顔を上げたゼロスは、そこに立つ思わぬ人物に瞠目した。

「し、しいなっ!」
「よ、熱心だねぇ。ここまで近づいて気付かないなんて、あんたらしくないくらい」
「つか、なんでお前!?」
面白がるように微笑むしいなが確かにそこにいる。だが、まさか彼女のほうから来てくれるとは期待すらしていなかった。信じられない思いで見上げていると、ゼロスの丸い唇を見たしいなの表情が小さく強張った。
「唇切れてる」
「あ、ああそういや」
指摘され、つい舌で舐めようとすると、「ダメだよ!」と鋭く制される。
「舐めたら悪化するよ。ったく、こんな乾燥した部屋にいるから……。仕方ないね、これでも塗っときな」
そう言って、彼女が帯の間から取り出したのは小さな丸い瓶。ふたを開けると、かすかに爽やかな柑橘系の香りが漂う。
「ゼロス、手はきれいかい?」
「いや、あんまり」
朝からインクで書かれた書類ばかりふれていたから、指先に黒い汚れが染み付いてしまっている。広げて見せると、しいなは苦く笑って、自ら瓶へ小指を浸した。
「保湿効果のある薬に、はちみつとみかんの皮で香り付けしたんだ。これ塗っとけば少しはよくなるよ」
しいなが手招くので、机に身を乗り出した。するとしいなのほうから、顎を引き寄せられる。思わず心臓が跳ねた。
「ちょっと口閉じて」
湿った小指が唇に触れる。切れた下唇をなぞる、妖艶な動きに、ぞくっと全身が総毛だった。彼女の指で薬を塗りこむほどに、渇いた心が満たされていく。
ひび割れた大地に水が染み込むように、ゼロスは貪欲に潤いを求めた。
「どうだい、少しは落ち着いただろ?」
いつになく優しく微笑んで、腕を放そうとしたしいなの腕を、ゼロスはすかさず掴んで引き止めた。

温かな腕。驚いた瞳の奥。慌てたように名を呼ぶ声。一目会えれば、声が聞ければ十分だなんて、どうして思ったのだろう。
この渇きはそれだけでは治まらない。もっと、もっと、彼女という潤いを注いでくれなければ、満足できない。
もがくしいなを腕の中に封じ込め、ゼロスは渇いた声で囁いた。
「まだ、足りない」



SUPPLY




 ゼロスならリップクリームくらい持ってそうですけどね。
カナタはいい香りのするリップが好きです。
女の子同士なら平気で貸し借りしちゃうんですけど……このしいなちゃんはちょっと大胆ですね。
要は、「みなさん、乾燥には気をつけてくださいね」という話です。