俺が俺であることは、俺だけが知っていればいいと思ってた。 女が笑っている。低めでよく通る心地よい声。目を開けずとも知れた。 「しいな……」 ほらそこに桃色の帯が揺れる。細くしまった腰を飾るそれはまるで空を舞う蝶のようだ。そして自分は最近それに触れることを許された。彼女に近づく許可を得られた。 「しいな」 名を紡ぐ。女は振り向かない。こちらに背を向けたまま、彼女は幸せそうに笑っていた。その向こうに何があるかは知らない。けれどそんな風に笑うときは、いつだって自分を見てくれていた。 「おーい、しいな。俺さまはこっちよー?」 いつもの軽い調子で呼びかけた自分の声は、空しく響いて消えていく。そこに残ったあまりにこっけいな空気に、一瞬ぞくりと背筋が震えた。 「……しいな?」 聞こえていないのか、彼女はこちらを見ない。かたくななまでに続けられる拒絶……無視は、彼の心の底にこびりついて離れない過去を思い出させた。 ぶわっと胸に湧き上がる恐怖の黒に飲み込まれないように、目を閉じた。すっと揺れる桃色が消える。 「あっ……」 拒んだのは自分なのに、こちらを見ない彼女が消えてしまうのが突然惜しくなる。それを追いかけるように手を伸ばせば、すでにそこには何もない。襲いくる喪失感に襟元を掴むと、ふと視界のはしに新たな人物が登場した。 自分によく似た色の髪の少女。大事な……唯一の家族。 まん丸の瞳がこちらをいぶかしげに見つめながら、たたずんでいた。 「セレ……」 「トクナガ? あの方はどなたですの?」 その形のよい唇が彼女の忠実な執事に問いかける。その言葉には疑念と嫌悪が含まれていた。執事が首を振ると、途端に彼女はくるりときびすを返す。ふわりと舞い上がったスカートの裾が彼の視界に残像を残した。 「そ。ならいいですわ。行きましょう」 「セレス! ちょ、待てよ! お前のお兄様だろーが!」 遠ざかる背中。空しく追いかける自分の声。必死。 「セレス! しいな! 俺は…俺は……?」 俺が俺だってことは、俺だけが知ってればいいと思ってた。 不意に頬に触れた冷たい感触に、ゼロスは飛び起きた。心臓の早鐘までもが聞こえる。汗と鳥肌が同時に現れていた。こめかみをぬるく雫が伝っていく。 「……?……」 見慣れた部屋に見慣れたベッド。聞こえるのは自身の荒い呼吸と、静けさの中に潜む貴族街の享楽だった。 呆然としたあと、おもむろに首をめぐらすと、こちらに腕を伸ばした不自然な格好でベッド脇に立ち尽くすしいなに気付いた。いつものようにミズホ独特の衣装をまとった彼女は、猫のようなその目を丸くしてこちらを見下ろしていた。その下の唇が何度か無意味に開閉したあと、ぽろと声をこぼす。 「ど、どうしたんだい、アンタ?」 低めだがよく通る心地よい声。 「すごい汗じゃないか。悪い夢でも見たのかい?」 いつもは怒りにつりあがっていることが多い茶の瞳が、困惑した様子で覗き込んでくる。近づきすぎた瞳の中に、同じく戸惑った自分の顔が映りこんでいた。 しいなが……俺を見てる? 先ほどまでかたくなに向けることを拒否していた視線を、ゼロスにそそいでいる。 夢の内容と混同して自失状態の彼に、しいなは心配そうにもう一度手を伸ばした。望んでいたもののはずなのに、一瞬身をすくめてしまったのは無意識で。 「大丈夫かい?」 拒否されて行き場をなくした指先が、ふらりと漂う。 「……しいな……」 「なんだい?」 呼びかけに答えがあったことに彼は再び身をすくめ、やがて彼は胸に詰まった息を深く細く吐き出した。 やっと振り向いてくれた。自分を認めてくれた。 その安堵が、今さら夢の恐怖を呼び起こす。かすかに震え始めた彼に苦笑したしいなは、いったんこちらに傾けていた体を伸ばして、ベッドに身を起こしているゼロスに寄り添うようにベッド端に腰掛けた。 「ホントにどうしちまったんだい、“ゼロス”。アンタらしくないじゃないか」 「……ゼロス。……俺?」 彼女の口から自然にこぼれ出た名前に目を開く。なんだかひどく懐かしい響きだった。 そう、夢の中で求めていたのはこれだった。いつだって、これが欲しかった。 神子ではない、ゼロス。 叶わない願いは、いつしか自己暗示に変わって……。 おかしな呟きを鋭く聞き取ったしいなは、今度こそ重症だと思ったらしく、その手で彼の頭をひと撫でした。まるで母親の手つきだ。とても心地よく安心できるぬくもり。 「ゼロスはアンタじゃないか。…まったくどんな夢を見たんだい? アンタがここまで憔悴するなんて」 「………………」 「ゼロス」 促すようなそれに顔を上げると目が合った。額に少し皺を寄せて。ああ、いつものしいなだ。怒り出す直前の。 頬の筋肉がゆるまった。一度封印を解いてしまえば、使い慣れた筋肉はすぐにいつもの動きを始める。先ほどまであんなに難しかった笑みがいとも簡単に表情を飾った。 「なっさけねぇなぁ、俺さま」 「ゼロス……」 「なあ、しいな。自分が自分である理由って何だと思う?」 「……理由?」 突然放り投げられた問いにきょとんとしたしいなは、すぐに顔をしかめた。素直な彼女は言われるままに考えてしまって、そこで初めて質問の意図に気付いたのだろう。 「アンタはまたくだらないこと考えて! とっくに神子制度は廃止されただろう!? もうアンタはアンタのままでいいんだよ」 「そんなことわーってる。そうじゃなくて。しいながしいなっていう人間だっていうこと、どうやって他人に証明する?」 「そんなこと……証明するまでもない、そのままでいいじゃないか。みんなあたしがしいなだって知ってる」 「ホントに?」 「ホントにって……」 きっと彼女は考えたこともないんだろう。普通の人より辛い過去を背負って生きてきた彼女だけれど、自身を否定されたことなどないはず。自分が自分である理由なんて、悩むまでもなく当然の答えとして身に纏っているのだろう。 しかし自分は、少なくとも名前とは別の肩書きを与えられていた人間には。時に自分というものがわからなくなる。 神子なのか、ゼロスなのか。 そもそもゼロスというのは誰のことか。 神子という肩書きが“ゼロス”に侵食して、いつしか他人に“ゼロス”を証明できなくなっていた。だが、もし自分までも“ゼロス”をなくしてしまったら、自分は何になるのだろう。 単なる神子? 確かにそうなろうとしたことも一時期あったが、もしそうなら、神子がなくなった今、あの時の自分はどこへいってしまうのだろう。 繋がらない堂々巡り。意味のない問いだなんてわかっている。卑屈な己の心が生み出した歪んだ理論なのだと。 でも時々無性に不安になるのだ。あの夢のように、誰も自分を認知してくれなくなるかもしれない。 ……誰か“ゼロス”である俺を認めてくれ……。 「思い出、じゃないかな。みんなと、あたし。一緒に築いた思い出。共有してる記憶。あたしがしいなだってことはそれが証明してくれる」 知らず握りしめていた両手に、ひんやりと冷たい掌が降った。薄い掌。静かに、言葉を紡ぎながら、優しく重ねられた体温が心地よい。 「思い出……」 「そうだよ。自分が自分だって理由もそれと同じさ。アンタには二十余年生きてきた記憶があるだろう?」 思いついた答えがよほど気に入ったのか、しいなは自慢げにその豊かな胸をそらした。にっと屈託のない笑みを浮かべて腰に手を当てる。 幼い仕草にゼロスは浮かべていた笑みに力が抜けるのを自覚した。皮肉な笑みから、自然な笑みへと。 「じゃあ、しいなは俺がゼロスだって証明できるんだ?」 「もちろんさ。アンタとの付き合いもずいぶん長いしね。お望みならアンタのアホの数々を列挙してあげようか」 「えー、できるなら俺さまとしいなの愛の歴史でお願いします」 「バ、バカ言ってんじゃないよ。アンタと愛なんか歴史作った覚えはないね!」 「そんなー、しいな薄情〜」 やっと思い出した日常がこんなにも愛おしい。そしてそれを思い出させてくれたしいながさらに愛おしい。 胸に湧いた黒のかわりに、あふれ出した愛の色は、ゼロスの体を動かした。伸ばした両腕に彼女の体を閉じ込めて、その勢いでベッドに引き倒す。 「わわっ! な、なにすんのさ!」 「つれないしいなに愛の歴史を列挙させるために事実を作ろうかと思って」 「このエロ神子!」 「神子じゃないってさっき言ったくせにー」 「じゃあエロゼロス! 放せ!」 「はなさなーい。うーんしいなやわらかーい」 「ぎゃあああ、この、この!」 必死に腕を張って抵抗してくる彼女をなんなく抑えながら、ゼロスは愛しい存在に頬をすり寄せた。 彼女がいる限り、もう見失わない。 俺が俺であることなんて、考えるまでもなく俺自身の人生だ。 |
存在証明 |
「神子である自分」を嫌いつつ捨てきれないゼロスさん。たぶん、恋人設定。暗いな…。
ゼロしいって容赦なく傷つけあうカップルな気がする。突き放しつつ、でも見捨てない…みたいな。